偏屈的モノ語り

January 29, 2007

めし椀

 

 

 

 

 

 何の変哲もない、木のめし椀である。
 どこで購ったか、いかほどしたか、もう憶えていないが、ナニ、ぼくが買ったものだもの、いかほどもしないはずだ。
 ただ、なにゆえに買い求めたか、ということだけは憶えている。

 どれぐらい前のことになるのだろうか。
 ベトナム生まれの禅僧で、フランスを拠点にして平和運動へ献身していることで、ダライ・ラマ14世と並ぶ世界的に著名なティク・ナット・ハン師が来日、一日鎌倉でウォーキング・メディテーション―歩く瞑想―のワークショップを開かれるから行かないか、と誰かに誘われた(あ、彼だろうなーというような心当たりがないわけでもないが、この記憶の薄れ具合ははどうよ)。
 少しく気持ちが荒んでいた頃でもあったので、行ってみようかなーと思い、参加を申し込んで会費を振り込んだ。これも同様に、いくらだったか憶えていない。

 その時に、“昼食は会費のうちで、粥が供されるが、器と箸は自前でね”という参加条件があったから、やっぱりここは木製の椀かな、持参するにも軽いし――とわざわざ買ったのだった。

 その日の師のワークショップは、というと……荒んだ心が前夜ワタクシに少なくない酒を飲ませ、おかげで寝過ごして――何せ鎌倉だもの――結局行けなかった(笑ってやってください)。
 したがって、この椀にはその会費分も含まれているので、お安くはない。もちろん行けなかったワタクシが悪いのであるけれど(泣)。

 だからというわけでもないが、この椀はときおり粥を炊いて食する時などに使っている。同じめし(コメ)でも、そういうやさしい食べ方をするのに向いているような気がする。
 そして、青菜の漬け物や梅干し、塩昆布などを菜に粥を噛みしめるたびに、あの日寝過ごした自分を悲しく思うのだ。

めし碗 もうひとつは普段使いのめし碗だ。たしか池袋西武百貨店で開かれていた陶芸家の展示即売で買った。絵柄かなくシンプルで、ツルりではなく少しくボツボツしている手ざわりもよくて、つい買った。3000円ぐらいだったように記憶している。このめし碗では、炊きたてのめしに納豆をぶっかけて掻き込んだりしている。
 これら以前に、どんなめし椀(碗)で食べていたのか……これも、実はさっぱり記憶がないんだよねー。



(01:54)

June 18, 2006

定九郎のふんどし

 

 

 

 

 

 

『仮名手本忠臣蔵』の定九郎のシンボルはふんどし(ただし六尺)

 

 近ごろ巷で世人の多く参加するというソーシャルネットワーキングサイト(SNS)の「ミクシィ」なるものがどのようなものか、ちょいと覗いてみたいと思ったのだが、
 |か既参加者の紹介があり、
 ∋臆辰靴覆韻譴丱汽ぅ箸貌れない。
 ということで、若き友人(知り合いが多数参加しているらしいのだ)に紹介してもらって、参加した。
 参加してわかったことは、自己紹介さえしておけば自分のページがもらえるから、別に何か日記様のものを書かずともいいことだった(実際、友人・知人はいろいろいたが、ぼくの紹介者も含め、何も書いていないものも多い)。
 しかし、そこはそれ、“書いたらどうなるか”という反応も見たいじゃないの。それで書いたのが、以下のしょーもない――できるだけクダラナイことを書こうと思って書いた一文だが、サイトがクローズトなので、せっかく書いたのだから、ここに再録することにした。いや、本当にしょーもないのですが……・

「ふ・ん・ど・し」

 えー、ふんどしを3枚持っている。
 購ったのはずいぶん前のこと。居合を習っていたときだ。
 居合の稽古着は、剣道と同じで下が袴である。
 剣道もそうだが、袴の下は下穿きをつけず、ふりちんという人がいる(柔道の人にもいて、こういう人に逆四方固めで押さえつけられると、テキの道着の股のあたりがこちらの顔に当たって迷惑このうえない)が、ぼくはトランクス型のパンツを穿いてやっていた。

 ところが、ズボンのようにピッタリだとそんなことはないのだが、袴だと股間の辺りがたっぷりしているので、ナニがかなり解放される。解放されるから動作のたびにぶらぶら振れる。いわゆる“いんのう”がナニが寄っているほうの腿にぴたんぴたん当たる。

 稽古場は公立小学校の体育館で、むろん冷暖房設備などない。だから、冬場は冷蔵庫のように寒く(雪が降ったときなど、屋根に雪、校庭に雪だから冷凍庫だ)、夏はくそ暑い。しかも運動だもの、冷凍庫状態のときはともかく、夏場でなくたって稽古していると汗をかく。顔にも胸にも背中にも汗をかく。むろん太腿にも汗をかく。
 で、汗をかくと、このぴたんぴたんがぺたんぺたんに変わって、動きに連れて“いんのう”が太腿に貼りついたり離れたりして、とーっても気持ち悪いのだ。

 ならばブリーフにしてきゅっとまとめてしまえば問題は解決するのだが、そこはそれ、居合といえば日本の武道じゃないの。ここはメリケンわたりの下穿きではなく、ニッポン男児だ、ふんどしでいこうじゃないか――と思い立ち、新宿三越に足を運んで、いわゆる「越中」(三越は「クラシックパンツ」の名称でオリジナルふんどしを販売している)を3枚、1枚は古典的な白、あとはパステルカラーの薄い水色とベージュのやつを買ったのだった。1枚500円程度だったと記憶している。

 こいつは正解でしたね。ぶらぶらしないからぴたんぴたんもないし、サイドはといえば紐だけだから、トランクスなんかよりもずっと涼しい。稽古が終わって、汗まみれの顔を体育館前の水道場で洗い、手拭いがなければ、前部のひらひらを思い切り引っ張り上げて拭ける(そんなことはしない)。

 しかし、ふんどしはピッタリしたジーンズなどには向かない。そのひらひらが下腹部のあたりでダンゴになってしまって、これはこれで具合があまりよろしくない。 ふんどしを常用していたたこちゃん(故・たこ八郎さん)は、だからひらひら部分を切って短くしていた。

 で、三段取得を一区切りとして居合をやめてからふんどしは蔵ったままだったのだが、こないだ、何がきっかけだったかは憶えていないが(どうせ酔っているときに思いついたのだろう)、突然、「今年の夏はふんどしでいこう」と思い立ち、下着入れの奥から引っ張り出して――こういうものは、洗って蔵っておいても放っておくと黄ばむものですな――漂白剤に浸け込み(見事に黄ばみが消えた)、洗濯して、穿いてみた。
 なかなかよろし。


 ……という一文なのだけれど、そうしたら反応がすぐにあって、知り合いから「ミクシィにきたんですね」というのがあったばかりか、知らない人たちが大勢覗きにきたことに驚いた。しかもそれが誰か――その人のページが記載され、プロフィールで――わかるのだ。覗くだけでなく、何かコメントがあれば書き込めるので、
「ぴたんぴたんが『ぺたんぺたん』、よっくわかりやす。『いんのう掻い掻い粗にして漏らさず』になってしまいますよね」
 なんて書き込みもあった(この人は、ぼくの知り合いの知り合いなのだが、当人は知らなかった)。女性も何人かきていたが、題材が題材だけに、さすがに書き込みはありませんでした。



(04:14)

March 12, 2006

セーターを着た湯たんぽ

 

 

 

 

 

 

 世間では桜前線が話題――今年の東京は3月25日あたりだそうな――なのに、わが家の梅は今頃ようやく蕾を開きつつある。何でこんなに遅いのか、毎年こうなんだよね。

 それにしてもこの冬は寒かった。11月あたりでとても寒さを感じるので、「これも、齢のせいかなあ」と、“老いてゆくワタシの哀しみ”とでもいったものにシミジミしていたのだが、その後わかったのは、ワタシの齢のせいではなく、この冬は寒い冬だったということだった(笑)。

 その寒さしのぎにおおいに役立ってくれたのが湯たんぽで、前にもちょっと書いたけれども、これはスグレモノだった。
 だいたいモノを買って、感心することはあまりない。というか、モノを購う場合、買う時点でなにゆえに買うのかということははっきりしており、またそのモノの機能もわかって買うのだから、使ってどうかということはおおむね想定の範囲内である。
 ところが湯たんぽは、こちらの期待以上のものがあった。
 とにかく気持ちがいいのです。

 ぼく自身は湯たんぽを使った記憶というのはあまりない。憶えているのは「豆炭あんか」で、小学校の頃はこれを抱いて寝ていた(これで火傷をし、その痕はいまも右脚のすねに残っている)。だから、記憶としては初めての体験ということになるわけだが、購うことになったきっかけは、東京女子医大附属青山自然医療研究所クリニックの班目健夫医師に取材したことだった。
 某がん雑誌(がんの患者およびその家族のための雑誌)に、がん患者のための『セルフ・ヒーリング』という連載コーナーを持っており、これまで気功、イメージ療法、バッチフラワーレメディ、漢方、ビワ温灸などを取り上げてきたのだが、そのひとつとして目をつけたのが、班目さんが提唱している『自律神経免疫療法』の簡易版としての「湯たんぽ療法」だった。

 免疫と湯たんぽがどうつながるのか。
,んの患者さんにおおむね共通してみられることに、「免疫細胞である血中のリンパ球の数が少ない」ということがある。
△海離螢鵐儺紊蓮⊆律神経のうちリラックスの回路である副交感神経優位の状態のときに増える。
8渋綽佑魯好肇譽梗匆颪涼罎琶襪蕕靴討い董緊張の回路である交感神経優位の生活になりがちである。
じ魎郷牲侏グ未寮験茲世函血流が悪くなって末端まで血がめぐらない。それがいわゆる「冷え」という症状につながっている。
イ任△譴弌逆に外部からからだを温めてやることで血流をよくし、
Ψ賣をよくすることで副交感神経優位の状態をつくりだし、
Х戝罎離螢鵐儺紊鯀やしてやろうではないか。
 ――という考え方だ。
 ね、面白いでしょう?
 いや、面白いだけでなく、実際に湯たんぽでもってリンパ球が増えた人というのがたくさんいるそうなのだ。

 で、こういう話を取材しつつ、班目さん愛用の湯たんぽに触ったのだが、そのやさしい温かさに、「これはいいかもしれない」と確信したのだった。
 そこで、東急ハンズに足を運び、湯たんぽを探したら、多種多様な湯たんぽがあり、しかも安い。ぼくが最初に買ったのは塩ビ製で、フィッシャーマンズセーター柄のタートルネックをまとったやつだったのだが、これが1800円程度。これに薬罐で沸かした湯を入れ、腿の上や腹、腰に当てていると、とても気持ちがいい。
 この「気持ちがいい」という感覚は、班目さんによれば冷えている証拠なのだという。

 あ、ちなみに「湯たんぽ療法」での使い方は、
‖椶両紊望茲擦
∧△吠く(腹腔内の内臓の血流をよくする)
9〜尻に当てる
て鵑力咾鯏鬚燭鵑櫃望茲察⊂綢里侶賣をよくする

「温まって」「気持ちよく」「リンパ球も増えて免疫力が高まる」――こんなにいいことはないではないか。しかもこちらは湯を沸かすだけだから、簡単だしね。

 ところで、湯たんぽとは何か。
 辞書を引くと「金属製・陶製などの容器の中に湯を入れて布で包み、寝床などに入れて暖をとるのに用いるもの」とある。
 湯たんぽの「たんぽ」は、「湯婆」の唐音読みで、中国では唐の時代から湯たんぽの存在が見られ、「湯婆子(tangpozi)」「湯婆(tangpo)」と呼ばれた。「婆」は「妻」の意味で、妻の代わりに抱いて寝ることから付いた呼称である――というから、独り者のぼくには相応しい(笑)。
 日本に伝わったのは室町時代頃とされるが、、「たんぽ」のみでは意味が通じないため、日本に伝わってから「湯」が付け加えられた。英語ではa hot-water bottle という。

 あまりに気持ちがいいのと、値段が安いことから、昨年末には仕事その他でお世話になっている女性4人にクリスマスプレゼントとして差し上げた。
 果たして、使われているのだろうか(「安いモンをくれやがって」と思っている人もいないとは限らないし……)



(01:04)

セーターを着た湯たんぽ

 

 

 

 

 

 

 世間では桜前線が話題――今年の東京は3月25日あたりだそうな――なのに、わが家の梅は今頃ようやく蕾を開きつつある。何でこんなに遅いのか、毎年こうなんだよね。

 それにしてもこの冬は寒かった。11月あたりでとても寒さを感じるので、「これも、齢のせいかなあ」と、“老いてゆくワタシの哀しみ”とでもいったものにシミジミしていたのだが、その後わかったのは、ワタシの齢のせいではなく、この冬は寒い冬だったということだった(笑)。

 その寒さしのぎにおおいに役立ってくれたのが湯たんぽで、前にもちょっと書いたけれども、これはスグレモノだった。
 だいたいモノを買って、感心することはあまりない。というか、モノを購う場合、買う時点でなにゆえに買うのかということははっきりしており、またそのモノの機能もわかって買うのだから、使ってどうかということはおおむね想定の範囲内である。
 ところが湯たんぽは、こちらの期待以上のものがあった。
 とにかく気持ちがいいのです。

 ぼく自身は湯たんぽを使った記憶というのはあまりない。憶えているのは「豆炭あんか」で、小学校の頃はこれを抱いて寝ていた(これで火傷をし、その痕はいまも右脚のすねに残っている)。だから、記憶としては初めての体験ということになるわけだが、購うことになったきっかけは、東京女子医大附属青山自然医療研究所クリニックの班目健夫医師に取材したことだった。
 某がん雑誌(がんの患者およびその家族のための雑誌)に、がん患者のための『セルフ・ヒーリング』という連載コーナーを持っており、これまで気功、イメージ療法、バッチフラワーレメディ、漢方、ビワ温灸などを取り上げてきたのだが、そのひとつとして目をつけたのが、班目さんが提唱している『自律神経免疫療法』の簡易版としての「湯たんぽ療法」だった。

 免疫と湯たんぽがどうつながるのか。
,んの患者さんにおおむね共通してみられることに、「免疫細胞である血中のリンパ球の数が少ない」ということがある。
△海離螢鵐儺紊蓮⊆律神経のうちリラックスの回路である副交感神経優位の状態のときに増える。
8渋綽佑魯好肇譽梗匆颪涼罎琶襪蕕靴討い董緊張の回路である交感神経優位の生活になりがちである。
じ魎郷牲侏グ未寮験茲世函血流が悪くなって末端まで血がめぐらない。それがいわゆる「冷え」という症状につながっている。
イ任△譴弌逆に外部からからだを温めてやることで血流をよくし、
Ψ賣をよくすることで副交感神経優位の状態をつくりだし、
Х戝罎離螢鵐儺紊鯀やしてやろうではないか。
 ――という考え方だ。
 ね、面白いでしょう?
 いや、面白いだけでなく、実際に湯たんぽでもってリンパ球が増えた人というのがたくさんいるそうなのだ。

 で、こういう話を取材しつつ、班目さん愛用の湯たんぽに触ったのだが、そのやさしい温かさに、「これはいいかもしれない」と確信したのだった。
 そこで、東急ハンズに足を運び、湯たんぽを探したら、多種多様な湯たんぽがあり、しかも安い。ぼくが最初に買ったのは塩ビ製で、フィッシャーマンズセーター柄のタートルネックをまとったやつだったのだが、これが1800円程度。これに薬罐で沸かした湯を入れ、腿の上や腹、腰に当てていると、とても気持ちがいい。
 この「気持ちがいい」という感覚は、班目さんによれば冷えている証拠なのだという。

 あ、ちなみに「湯たんぽ療法」での使い方は、
‖椶両紊望茲擦
∧△吠く(腹腔内の内臓の血流をよくする)
9〜尻に当てる
て鵑力咾鯏鬚燭鵑櫃望茲察⊂綢里侶賣をよくする

「温まって」「気持ちよく」「リンパ球も増えて免疫力が高まる」――こんなにいいことはないではないか。しかもこちらは湯を沸かすだけだから、簡単だしね。

 ところで、湯たんぽとは何か。
 辞書を引くと「金属製・陶製などの容器の中に湯を入れて布で包み、寝床などに入れて暖をとるのに用いるもの」とある。
 湯たんぽの「たんぽ」は、「湯婆」の唐音読みで、中国では唐の時代から湯たんぽの存在が見られ、「湯婆子(tangpozi)」「湯婆(tangpo)」と呼ばれた。「婆」は「妻」の意味で、妻の代わりに抱いて寝ることから付いた呼称である――というから、独り者のぼくには相応しい(笑)。
 日本に伝わったのは室町時代頃とされるが、、「たんぽ」のみでは意味が通じないため、日本に伝わってから「湯」が付け加えられた。英語ではa hot-water bottle という。

 あまりに気持ちがいいのと、値段が安いことから、昨年末には仕事その他でお世話になっている女性4人にクリスマスプレゼントとして差し上げた。
 果たして、使われているのだろうか(「安いモンをくれやがって」と思っている人もいないとは限らないし……)



(01:04)

November 13, 2005

 

 この一文は昨年(2004年)秋に書いたものです。

 

頭の体操 近ごろ本屋へ行くと「脳力活性」だの「脳を鍛える」だのといったタイトルの本がよく目につく。しかも、子ども向けから中高年向けまであって、一種ブームの様相がある。もちろん「脳力」なんていう日本語はなく、誰かの造語なのだが、パテントを取っておけばさぞや儲かっただろう、と思うほどだ。

 本でこれだけあるのだから、テレビにないはずはなく、たとえば『脳内エステ IQサプリ』なんて番組があって、“脳のマッサージ(エステティック)”と“知能のための栄養補助(サプリメント)”というようなニュアンスなのでしょう。

 

 では、「脳力活性」だなどというからどんなものかと見てみれば……何のことはない、たいていはいわゆる「頭の体操」の類で、ちっとも新しいものじゃない。

 この「頭の体操」も造語だが、何で“いわゆる”と付けたかというと、若い人たちはどうか知らないけれど、ある世代から上の人たちにはそう言っただけで、共通認識できるコトバだからだ。それぐらい日本人には膾炙しているし、このコトバが出てきたときのインパクトが強かった証拠にほかならない。

 

 その元になったのは、このコトバをタイトルとした1冊の本だった。

光文社カッパブックスとして1966年(昭和41)に出版され、その年を代表するベストセラーになると同時に、パズルクイズブームを巻き起こした。

 著者は心理学者の多湖輝(たごあきら)教授。「頭の体操」というネーミングも新しかったが、著者の名字もめずらしく、これもたぶんインパクトのひとつになったと思うね。

 で、どれぐらい売れたかというと、シリーズが20集も続き、あれから30年にもなるというのに、第1集は版を重ねて250万部にも至っているという(現在は光文社「知恵の森文庫」)。

 なんでそんなに売れたのか。時は高度経済成長まっただ中。2年前に東京オリンピックと東海道新幹線開通の二大イベントをやってのけて、さあこれから欧米に追いつき追い越すぞ、というタイミング。そのためには“柔軟なアタマと発想の切りかえが必要だ”とされた時代性とうまくフィットした――と言う人は言う(ちなみに「体操」は東京オリンピックを意識したものだそうな。30へぇ)。

 

 ならば、今日の「脳力」ブームもわからないでもない。30年前も時代の転換期だったが、いままた転換期の渦中だからだ。

 企業も終身雇用や年功序列制度が崩れ、サラリーマンはサバイバルの時代。老後だってちっとも安泰じゃない。これからいったいこの社会がどうなっていくのか、誰にもわからない。古い価値観は捨てて、またアタマを切り換えていかないと、これからは生きていけませんよ……という意味では、いまのブームのほうがその背景はシビアである。

 

(『P's ANIMO』誌 2005.WINTER号掲載分に一部加筆)

 



(20:16)

September 25, 2005

 この一文は昨年(2004年)春に書いたものです。

 

 

マンダム 昨夏の終わり、一人のアメリカ人男優の死が報じられ、その訃報を目にした多くの日本人があるフレーズを思い出した。

男優はチャールズ・ブロンソン。そのフレーズとはもちろん〈ウーン、マンダム!〉……と、つい想像してしまったほど、「ブロンソン」といえば「マンダム」、「マンダム」といえば「ブロンソン」のイメージの結びつきは強い。実際、日本のマスコミ報道で、「マンダム」に触れなかったものは一つも目にしていない。

 

 戦後生まれの男の子たちのオシャレは、まず髪の毛から始まった。

その先駆的商品が、1962年(昭和37)にライオンが若者をターゲットに、米国ブリストル・マイヤー社と提携して発売した液体整髪料「ヴァイタリス」だ。それまで整髪料といえばポマードやチックといった、髪の毛を固めるベタベタ系のものしかなく、しかしそれらは、たとえば僕の中ではそれらは“父親のニオイ”として記憶されているほどオッサン臭いモノだった。

 そこへ登場した「ヴァイタリス」は、当時花開きかけていたアイビーファッションの、短髪をナチュラルに七三に分けるアイビーカットをキメるのにピッタリだと、またたく間に若者に膾炙していった。

 

 続いて登場し、若者たちのオシャレごころをさらに煽ったのが、資生堂が1967年(昭和42)に発売した「MG5」シリーズだ。ヘアリキッド・トニックといったヘアケア製品はもとより、スキンケアからフレグランスまでトータル23品目というラインナップで、ここにおいて「男性化粧品」というジャンルが初めて生まれたといっていい。

 この「MG5」によって男性化粧品という市場がつくりあげられたところへ、いきなり登場し、いきなり市場を奪ったのが、チックの代表的ブランドだった「丹頂」が起死回生をかけて投入した「マンダム」で、1970年(昭和45)のことだ。

 

前年に公開された仏映画『さらば友よ』で、主役のアラン・ドロンを食う存在感で注目されたとはいえ、まだまだ有名とはいえなかったブロンソンを広告キャラクターに起用、「MG5」が団次郎(朗)や草刈正雄といったバタ臭いイケメンキャラクターでスマートなカッコよさをアピールしたのに対して、やっぱり丹頂というべきか男臭い外国人オッサンで勝負、見事に大当たりして、以降8年にわたって「マンダム=ブロンソン」攻勢は続き、そのブランドを揺るぎないものにするとともに、発売の翌年には社名も「マンダム」に改めている。

 

 その成功は、極論すればブロンソンというキャラクターに負うところが大きかったと思うし、ブロンソンも日本では「マンダム」のおかげで津々浦々まで知られた、と思う。

 報道によれば、ブロンソンの訃報に対し、マンダムでは供花を送ったという。

(『P's ANIMO』誌 2004.spring号掲載分に一部加筆)

※ちなみに、ブロンソンのCMの監督は、まだメジャーデビュー前の大林宣彦さん。ここから、いわゆる“外タレブーム”が始まるのだが、大林さんはソフィア・ローレン(ホンダの女性向けバイク“ラッタッタ”)はじめ、外タレCMの多くを手がけている。



(02:07)

June 22, 2005

ジャスピンコニカ

デジタルカメラというのは、撮影直後にその場でどう撮れたか確認できるし、パソコン上でいじれたり、そのままメールに添付して送れたりするので、ぼくらのような商売にとって便利といえば便利なのだが、フィルムカメラの、たとえばDPEから受け取るまで仕上がりがわからないから、仕事がらみのものなど撮り損ないがなければまずほっとするし、会心のショットと思えるものが1枚でもあろうものなら嬉しくなる――というようなあたりの感動が薄いような気がしてならない。

 

それはさておき、デジカメも含めてカメラというのは、いまやどこの家庭にも1台や2台はあり(カメラ付きケータイの登場で1人1台の時代か)、生活用品の一つのようになっているけれども、そうなった――つまり誰もがカメラを持つという“カメラの大衆化”は日本の場合、そんなに昔のことではない。ほんの30年ほど前、1970年代のことで、それを推し進めたのは、2台の日本製コンパクトカメラの登場だったと言っていい。

  

カメラの大衆化の要件は何か。
  それは“誰でもちゃんと写真が撮れること”だ。

 

その命題を背負った開発者が現像所を回り、マーケティングしている中で気がついたのが、シロート写真に撮り損ないが多いということだった。
 一番の原因は光量不足だ。
 「写真を撮る」ことの基本は光の量。これをコントロールするのが絞りとシャッタースピードで、足りなければストロボで補正する――というのは、カメラを知っている人で、シロートはただシャッターを押しまくる。そこで、まず光量の失敗がないようにストロボを内蔵することを考え、開発した。

 

もうひとつは、ちゃんと“焦点が合っている”ということだ。ストロボ内蔵を実現した同じ開発者が次に取り組んだのがこの“ピント合わせを自動にする”という課題で、これもクリアして製品を世に送り出し、かくして“誰でもちゃんと写真が撮れる”カメラの登場で、日本のカメラの大衆化の時代が始まった。

 

――と書くと簡単なようだが、いまではカメラのジョーシキ(付いていて当たり前)であるこの「ストロボ内蔵」「オートフォーカス」という機能は、いずれも“世界初”の技術であり、革命的なことだった。だから、その開発の過程はNHK『プロジェクトX』の題材にも十分なり得るものだったと思う。

 

愛称を言えば誰でも知っている。
 ストロボ内蔵は『ピッカリコニカ』(1974)、オートフォーカスは『ジャスピンコニカ』(1977)で、その名でわかるように開発したのはいずれも小西六写真工業。現コニカミノルタだが、本稿で『ピッカリ…』ではなく『ジャスピン…』をタイトルとしたのは、「カメラの日」(11月30日)が『ジャスピン…』の発売日としていることと、本体とレンズがセパレートゆえにむずかしいと言われた一眼レフのオートフォーカスを商品化し、こちらは一眼レフの大衆化に貢献したのがミノルタの『α7000』(1985)だったことに敬意を表してのことである。
(『P's ANIMO』誌2004.summer号掲載分に一部加筆)

 



(09:29)

May 18, 2005

オールド 誰が最初に命名したのか、ボトルの形状から主に関東では「ダルマ」、関西では「タヌキ」という愛称で呼ばれる。
 もちろんサントリーのウイスキー・オールドのことだが、商品名由来でない愛称を持つ酒なんてほかにあるだろうか。
 裏返せばそれだけ愛されたということで、いや実際、ついこの間までオールドは国産ウイスキーを代表する商品だった。

 なぜそれほど愛着を持たれたのか。それは、戦後日本のサラリーマン社会のある種あこがれの対象だったから、と言っていい。
 
 オールドの登場は復興期の1950年(昭和25)。とはいえ大手企業の平均給与だって1万3000〜5000円程度という時代に、この新商品は1500円もしたから、安月給族はもっぱらちょっと前、1946年(昭和21)に出た同じサントリー(当時は「寿屋」)のトリスウヰスキーで満足していた。「トリスバー」なんてものができるのが、この時代です。
 しかし、まもなく日本は高度経済成長期に突入、“一億総サラリーマン時代”の幕が開く。
 
 サラリーマンの生きがい、やりがいは何といっても出世である。
 そこで、大衆酒トリスと高級酒オールドの間に、戦前生まれで名品と言われた角瓶(通称「カク」。1937年=昭和12)を置いて、これが出世のシンボルとなった。つまり、いまはトリスを飲んでいるけれど、いつかはカクを飲むぞ、さらに出世できたらオールドを飲むんだ――という図式ですね。

 一方、景気がいよいよイケイケドンドンになった頃、よく言うところの“右肩あがり”の時代ってやつですが、サントリーは「二本箸作戦」なる戦略を展開する。ウイスキーを和食料理屋など“二本箸”の店にも置かせようというもので、提案されたのが和食にも合う「水割り」なる飲み方(昔の映画を見ると、それこそトリスバー的なところで客はウイスキーをストレートで飲んでいる)と「ボトルキープ」というシステム。その中心商品がオールドだった。
 
 以降、サラリーマンの酒の飲み方といえば、ボトルをキープして水割りで、というスタイルになっていくのだが、このボトルキープという日本独自のシステムもまた、“いつかはオールドをキープするぞ”という彼らの向上心をあおっていき、所得も増えてサラリーマンが時代を謳歌できるようになると、酒場の棚は社用族のダルマ(タヌキ)で埋め尽くされていった。

 この図式が崩れるのは、直接的には外圧による1989年の税制改革によって輸入洋酒が一気に安くなったためで、それまでスコッチのジョニーウォーカー赤ラベル(通称ジョニ赤)でももらおうものなら、それこそ居間に置いた安っぽい合板製のサイドボードなんぞに飾り、何か特別なときだけ栓を開ける、というようなものだったのが、その上のクラスで高級輸入洋酒の代表だったジョニ黒だって、いまや2000円台で買えてしまう時代になっているものね。
 
 が、それだけではない。同時に、時代はバブル崩壊(1991年)直前で、終身雇用・年功序列・給料はベースアップで毎年上がる――というような従来のサラリーマン社会構造の終焉も間近だった、そのことも無縁ではないと思う。

 ぼく自身のことをちょっと記せば、給料者生活をしたこともあるけれど、そんなウイスキーにシンボライズされるような社会にいたわけではないので、無縁だった。初めて飲んだウイスキーはサントリー・レッドで高校生の時だったが、社会人になって、20代におおむね飲んでいたのはサントリー・ホワイト(新宿ゴールデン街に入り浸っていた)で、その次と言えば前述のように輸入洋酒が安くなったことと、酒の雑誌で仕事をしていた関係でハマったことから、いきなりバーボンに飛ぶのだけれども、最近の若い連中に、「最初に飲んだウイスキーは何?」と問うと、「ワイルドターキー」だの「グレンリベットの12年」なんて答えが返ってきて……ちょっとばかりクヤシイ。
 
(『P's ANIMO』誌 2004.WINTER号掲載分に一部加筆)


(20:35)

April 24, 2005

グリコ R・スコット監督作品『ブラック・レイン』(1989)は、日本では概ね松田優作のハリウッドデビューであると同時に遺作ともなった映画として語られるが、もうひとつ記憶されておいていいことがある。それは「グリコ」マークのハリウッド銀幕デビューだ。

 ……かどうかはじつは断言できないのだが(笑)、同監督の代表作『ブレードランナー』的世界を彷彿とさせる怪しげなOSAKAの夜に、ミナミは道頓堀河岸に眩しく輝くあの“一粒300米”のネオンボードが映し出されたときには、おかしさを通り越して、妙な感動を覚えてしまった。
   いや、彼にとっては単に面白い画像というだけだったのかもしれないが、「ウン、これはまぎれもなく日本のマークだ」と首肯いてしまったのだ。

 それは、ぼくやアナタの子ども時代から身近にあり、遠足などのお供としてなじみ深いマークだったから、ということだけにはたぶんとどまらない。
 ひとつは、あのマーク(「ランニングマーク」という)をまとった赤い箱のキャラメル『グリコ』の登場は何と大正10年(1921)。爾来80年を超える時空を生きて今日に至る、いわば日本の近代菓子の代表と呼べる存在であること。もうひとつは、その出自において込められた日本の子どもたちに対する愛ではなかろうか、と思うのだ。

「グリコ」という名称がグリコーゲンからきているのはよく知られている。
 薬種業だった創業者が郷里・有明海の牡蠣の成分から思いついたとされるが、このエネルギー代謝に重要な栄養素を、まだ大いに貧しく栄養不足だった時代の日本の子どもたちに、と考案されたのがキャラメルに仕立てた文化的滋養菓子『グリコ』であり、商品と栄養価をアピールするために考案されたのが、「1粒300メートル」のキャッチフレーズとあのマークだった。
 
 一方、「グリコ」といえばオマケ付き菓子の代名詞でもあるが、「グリコ」に豆玩具が入れられるようになったのは6年後の昭和2年(1927)。翌々年からは早くもオリジナルのそれをつくり始めている。
 しかし、そのコンセプトはいまのように販促品、つまり“売らんかな”の気持ちからではなかった。「子どもたちにとって、食べることと遊ぶことは二大天職」ということから、食べることで健康なからだを、玩具によって子どもたちの知識と情操を育もうと考えたのだという。
 
 
 今日「食玩」などと呼ばれ、菓子が主かオマケが主かわからないものがブームとやらで数多く出回っているが、そのどこにグリコや、グリコのオマケに込められたような思いがあるのか。いや、いまの時代、そんな思いで世に送り出される商品がどれほどあるのか……「チョコエッグ」と言ったっけ? あんなもンに群がるオバカな日本人の姿を見るにつけ、そんなことを思わずにはいられない。

 
(『P's ANIMO』誌 2003.SUMMER号掲載分に一部加筆)


(06:12)

April 07, 2005

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 肩はナチュラルショルダーで、シルエットは寸胴。
 フロントはシングルブレスト3つボタン段返りで中1つ掛け、ボタンはメタルの金ボタン。
 胸はパッチポケット、脇はパッチ&フラップポケット。
 バックはセンターベントでフックベント。
 
 ――と、この一文を読んですぐにわかるアナタは、その昔、「VAN」に憧れ、「メンクラ」(雑誌『MEN'S CLUB』婦人画報社刊/現・アシェット婦人画報社)を教科書に「アイビーとは何ぞや」ということをお勉強した一人に違いない。そして、「素材はフラノ、カラーはやっぱりネイビーかキャメルが基本だぜ」などと友達に蘊蓄を垂れたりしたこともあったはずだ。

「VAN」「アイビー」をご存じない方のために言っておけば、冒頭の一文はアイビースタイルのブレザー仕様で、アイビーは60年代から70年代にかけて若者たちに大流行したファッションスタイル。そして、その流行を生み出したブランドがVAN(ヴァン)で、当時はそのロゴマークの入った紙袋を小脇に抱えるだけでもカッコよかったほどだった。
“若者たちに大流行”と書いたけれども、VANに比べたら今日びのファッション流行なんて目じゃない。VANはファッションを中心に置いて遊びからカルチャーまで、つまりライフスタイル全般に影響を与えたのだから。

  しかし、それもそのはず。生みの親、石津謙介は単にアメリカン・ファッションを提供しようとしたのではなかった。終戦直後に出会った一人の米軍中尉から聞いた、アメリカのアイビー・リーグ(アメリカ東部の名門8大学で組織するアメリカンフットボールリーグ)が持つ“ファッション哲学”を戦後の若者たちに提供しようとしたのだから。
 流行に左右されることなく長く着ることのできるもの。そしてプライドやプレステージなど、着る者に何か満足を与えてくれるような、ひとつのファッション体系――それを目指したのがVANだった。
 
 ブランド名の意味は、前衛、先陣、先駆、先導者。
 ブランド自体が生まれたのは昭和26年(1951)。そのブランドからアイビーファッションが世に送り出されたのは同32年(1957)。雑誌『MEN'S CLUB』が教科書になったのも当たり前で、石津は編集顧問だった。ちなみに、当時誌上でモデルをつとめた一人に菅原文太がいる。
 
 大ブレイクするのは、いわゆる団塊の世代第1陣が高校生になった39年。それをさらに後押ししたのが同年に創刊された『平凡パンチ』(平凡出版刊。現・マガジンハウス)という若者向けカルチャー&風俗雑誌だった。
 この年はまた東京オリンピックが開催された年でもあった。時代は復興期を終えて高度経済成長期に突入していた。
 そしてVANと『平凡パンチ』の登場以降、ニッポンは若者中心文化の社会になっていく――。
 
『P's ANIMO』2003年秋号掲載分に一部加筆
 
※追記:2005年5月24日、アイビー・ファッションの生みの親、石津謙介氏死去。享年93。大往生である。


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