酔夢楼日常

July 13, 2008

辻・島村  いまとなってはいつだったか憶えていない。
 寝ていたときに電話が起こし、出たら島村菜津ちゃんだった。
「××××でさ、××××××××だから、7月11日に『カフェスロー』に来て」
 ××××は伏せ字ではない。当方が寝ぼけていたことと、彼女の話がとっちらかっていてわからなかったのだ。
 で、とりあえず「ハイハイ」と返事をして、そのあと調べたら、彼女と辻信一さんが対談した『そろそろスローフード』(大月書店)という本が出て、出版記念イベントとして2人のトークショーがあるのだということがわかった。(ったくもう)

 日本に「スローフード」という運動をきちんと紹介し、各地でスローフード運動が巻き起こるきっかけをつくった島村菜津(ペンネームである)。一方、環境運動家として「スロー」という思想&ライフスタイルを提唱した『スロー・イズ・ビューティフル』を著した明治学院教授の辻信一。
 じつは、この2人を引き合わせたのはぼくで、だから島村菜津ちゃんからの電話でも、「会わせてくれたのはタオさんだから…」というような文句もあった。

 だから、何だかよくわからないまま行きました。
 そうしたら、菜津ちゃんが「この人が、あの『朝めしの品格』の…」とまわりに紹介する。すると紹介された人たちが「ああ〜」と反応する。えっ? 何なの――と不思議に思ったら、今回の本の中で拙著のことが出ていて、関係者は知っており、どんなオトコが書いたのかと思っていたらしい。
 失礼なことだが、2人の対談本のことは菜津ちゃんの電話で知り、だから会場で買おうと思ってやってきたので、未読でした。
 何と紹介されているか。

  …友人の麻生タオというライターが『朝めしの品格』という本を書いたんです。本人 はここだけの話深酒もするし(笑)、かなり破天荒な生活をしてそうなんだけど……

 コラ!

 



(21:08)

April 02, 2008

『朝めしの品格』の読者からメールが来た。
なに、読者といっても年長の友人なんだけれどもね(笑)。
そうか、買って読んでくれたんだと思うと、うれしいじゃないの。


Subject:「朝めし」おいしかった

○○ちゃん(○○はぼくの本名。“ちゃん”付けだけはやめてほしい)
読みました。
美味しかった!

不思議なもので梅干しのくだりを読むと梅干しを食いたくなった。
沢庵を読めば、沢庵を食いたくなった。
おかげで梅干し、沢庵、ワカメ、納豆を一品いっぴん改めて味わうことができました。

日ごろ食べないのですが、わが家の冷蔵庫には梅干しが2種類ありました。一つは市販の甘いやつで、もう一つは姉が自宅の梅の木の実でこしらえたやつ(5年くらい前にもらった)。
断然、姉のものが超すっぱくてうまいのです。

たまたま今、もらいものの安房鴨川産の米(これもうまい)があり、先日の土曜日、仕事があったので日の丸弁当をつくりました。わき役として、沢庵、私のつくったかつお節と煮干しの佃煮(だしをとった残り)も添えました。うまかった。

ということで、お替わりはいつ出てくるのかな?


そうですか。ぼくの本は美味かったですか。
それはぼくにとってもうれしいことです。
ちなみに、ぼくはこのところ玄米を食っています。

(20:44)

February 19, 2008

 いやあ、今回は本当に参った。
 1月31日から2週間余――ということは半月ほど、ほとんど死に体で使い物にならなかった。

 1年に1回、あるいは2年に1回ほどやってくる急な発熱だ。
 昨年や一昨年も来たはずだが記憶にあまりないのは、そんな酷くはなかったのだろうか。記憶にあるやつはブログに書いたので、いつだったか見返してみたら2006年1月2日付けで書いている。ということは、その前年、2005年の年末のことだ。
〈翌日(=2005年12月29日)目覚めたら、その途端、「あ、こらアカン」とわかるほど発熱していた。何しろ、寝床にいるのにいきなりからだにガタガタと震えがきたのだから。
 症状としては風邪である。熱がある。咳をすると気管支のあたりが痛い。しかし、風邪でないことはわかっている。年内、とりあえずやれることをやったということで気がゆるみ、そのゆるんだ隙を狙って何かがドッと押し寄せ、変調をもたらしたのだ。実はこんなことが2年に1度ぐらいある。あとで考えると、いつも何かしら一段落したようなときで、朝、いきなり、「あ、今日はダメ、もう」ということになってしまう。〉

 今回は、夕方ちょっとだけ炬燵でうたた寝して、夜の8時頃目覚めたら、「こらアカン」状態だった。症状は例によって風邪である。今回はインフルエンザを疑ってもみたのだが、下痢や吐き気はないし、ばかりか食欲がある。ふだんよりも食欲があって、目覚めるたびに空腹を感じる……というのも変調だと思うのだが、ともあれ重篤ではなかろうという判断をした。
 熱はどれぐらいあったのか、最初は測らないのでわからない。発熱しているのは確かだから、測っても仕方ないもの。だから、最初は水分などを補給しつつ、湯たんぽを抱いてただ寝ているだけだ。前にも書いたが、発熱は免疫が活性化している状態なので、死にそうなほどでなければ、まずは出るだけ出す、という方針だからだ。
 しかし、2005年のそれを読むと、その時の激戦は一夜であり、翌日が回復期で、翌々日の大晦日にはちょっとだけだが大掃除と正月の準備もしているのだけれど、なぜか今回は激戦にならず、最初ドンと来た後は小競り合いのようになって、あとは持久戦というのか、半月ほども引きずってしまったのが違うところだ。

 原因を振り返ると、『朝めしの品格』のラストスパートが年末ギリギリであり、年明けはすぐにゲラの直しに入るなど、ここ何カ月かずっと『朝めし…』から気が抜けなかったことだろう。もちろんその間にも別の仕事をしなければ生きてはいけない。それや何やがいったん途切れたのが1月末だったのだと思う。
 今回の特徴は、まず腰にきたことだった。発熱を感じてすぐだが、トイレに立った時に腰に違和感があった。というより、ちょっと屈んだりすると左腰に「ウッ」と呻いてしばらく動けないほどの痛みが出るのだ。発熱とこの腰痛の関係がよくわからない。知っている人は教えてください。ともあれ、この腰痛が消えるまでに四日ほど要した。

 それ以上に悩まされたのは、変な頭痛だ。
 2005年にも多少それはあって、こんなふうに書いている。
〈頭のあちこちに頭痛というほどではないが、微妙な違和感――後頭部のあたりがジーンとするとか、血流が悪くなっているような部分を感じるとか、額の生え際のあちこちを押すと痛感があるところがあるとか――がある。〉
 しかし、こんな軽い状況ではない。頭が痛いというより、首から上のいろんな部分が何も考えられないほど痛いのだ。たとえば、顔のあちこちを触ると右目と鼻の付け根の部分が猛烈に痛かったりする。それで額やこめかみ、右目と鼻の付け根などにサロンパスを貼るなどしたのだが、たいした効果はなかった。
 この痛みは何なのか、ネットで調べてみたら「片頭痛」というものらしかった。つまり、ぼくは片頭痛なるものをあまり体感したことがなく、今回初めてと言っていい。しかもこいつは熱が少し下がっても、変な腰痛が消えても居残っているのだ。2週間ほど死に体だったのは、おおむねこいつのせいだった。
 常備しているのは「バファリン」(主成分はアスピリン)で、解熱剤として使うことはないけれども、鎮痛薬としては一番合っているということからだが、こいつがあまり効かない。頭痛に……という葛根湯も効かない。一方、やらなければいけないまとまった仕事があって、デッドエンドにさしかかっている。
 しかも、下がったかなと思って熱を測ると、36度の高い方から37度の高い方を行き来するばかり。ぼくは平熱が35度の高い方なので、この程度であっても頭はボーッとしている。そこへ持ってきて、片頭痛だ。片頭痛も眠っている間は何ともないのだが、目覚めてしばらくすると、ジワーッと始まるので手に負えない。

 ……てなことが2週間余も続いて、この間2度ほど打ち合わせや取材があって余儀なく外出したのだが、パソコンに向かって原稿を書いたりする力がなく、多大な迷惑をかけたところも出てしまった。心からすまないと思うばかりだ。

 今回、からだを支えてくれたもの。1つは昨年漬けてわりとよくできた梅干。なぜかカラダが欲するので、1日に5個ぐらいは食べていた。まあ、いろんな意味で殺菌になるので、これはよかったかと思う。
 もう1つは、冷えを防ぐという紅茶ショウガ(ショウガ紅茶というのだろうか)。紅茶に摺り下ろした生姜を入れて飲むというもので、甘味は黒砂糖か蜂蜜だという、紅茶はリプトンのティーバッグのお徳用パック、生姜は瓶詰めのツブツブの残るおろし生姜、甘味はスーパーで買ったアカシアの蜂蜜――という組み合わせで、そう1日3杯ほども飲んだだろうか。
 結構うまいです。

(02:08)

January 16, 2008

 今年の仕事始め――というより、仕事で最初にお会いしたのは小沢昭一さんで、新宿駅東口の滝沢だった場所にできた椿屋という珈琲店。
 昨年最後にお会いしたのは春風亭昇太さんで、内幸町のイイノホール。「にっかん飛切落語」の開演前のロビーで、ナント昇太師匠、桂米朝、桂三枝に挟まれて3枚看板になっている。
 どちらも東海大学系列の月刊『望星』という雑誌の特集の取材で、テーマは「落語と日本人」。落語というのは日本独自の“一人芝居”のスタイルだ。漫談みたいなものはアメリカのスタンダップ・コミックのようにいろいろあるけれど、落語はシチュエーションがあり、登場人物があって、かつ一人芝居でもモノローグではなく――イッセー尾形だってモノローグだ――演者が複数のキャラクターを演じ分けるというのはヨソにはない。従って、世界でもきわめてユニークな芸だといえる。
 とはいえ、シェークスピアなら世界にあるが、落語はおおむね日本人しか聴いていないので、「落語と日本人」とはきわめて曖昧なテーマ設定だ。だから、今回はこっちもとくに事前に準備することもなくアバウトなままお会いして、出たとこ勝負、成り行きまかせのインタビューとなった(これはこれで、けっこう緊張するものではあるけれど)。

 それにしても、年末年始の仕事が「落語」とは何ともお目出たいじゃない?
 昇太師匠の前の取材は、「うつ」をテーマに専門医やカウンセラーなどで、社会的問題だから大切なテーマだし、興味深くはあっても、当たり前だが楽しくはないやね。

 小沢さんにお会いするのは、今回で4度目だ。いずれも『望星』のインタビューで、最初が「童謡・唱歌」というテーマだった。これはぼくから出したテーマで、日本の童謡・唱歌には何かがあるとずっと思っていて(ちなみに「童謡」と「唱歌」は違う)、ちょうど小沢さんがご自分の好きな童謡・唱歌を歌ったCDを出されたものだから、ぜひお話をうかがいたかったのだ。
 それだけではない。ぼくにとって小沢昭一というヒトは、子どもの頃から興味ある人でもあった。最初知ったのは裕次郎やアキラが看板を張っていた頃の日活映画で、いつもヘンな役ばかりやる人という印象だった。高校ぐらいの時には『話の特集』などで目にするようになり、それから『日本の放浪芸』の研究でしょう? 永六輔、野坂昭如と3人で「中年御三家」として武道館で歌のコンサートをやったりね。ラジオの『小沢昭一的こころ』もときおり耳にしてました。で、落語などにはばかに詳しい……。
 そういうこともあって、お会いすることだけでもうれしかったのだが、インタビューするとお話がとても楽しいのだ。小沢さんの“いい時代”は戦前である。生まれ育ちは東京・蒲田。その戦前の東京の下町(蒲田を小沢さんは場末と呼ぶが、松竹の撮影所もあり、近くには文士村などもあって、かなり文化的な町だったようだ)の話はとても興味深い。
 しかもテーマが童謡・唱歌だから、インタビューの途中で歌が出る。2度目のテーマは「日本の音」で、小沢さんからは物売りの声や門付けの文句が再現される。へぇー……と感心している場合ではない。ぼくはこれを文章で伝えなければならないのだ。
 文字化したいくつかが以下のようなものです。

「エーィ、いわしコイ、テーイ、いわしコイ」(イワシ売り)
「早く、出てきて、アーメ買っておくれ。この飴なめたら寝小便(ねしょんべん)が止まるよォ〜」(飴売り)
「大黒さんという人は、一(イチ)に俵を踏んまえて、二(ニイ)でにっこり笑(わーろ)うて…」(大黒舞という門付け)

 テンポや抑揚を文字にするのはとても無理(笑)。
 3回目は「食」。小沢さんは、戦前豊かだった食と、戦中・戦後の飢え死にしそうだった時代の経験を踏まえて、こう言ったものだ。
〈「戦争反対、戦争反対」と誰もが言う。当たり前のことのように口にしますが、わかってないことがあって、それは戦争になると食い物がなくなるってことです。いまの人たちは観念的に「戦争は悪い」と言うけれども、戦争とは“食い物がなくなって、生きていけなくなる”ってことなんです。誰もが生きていけなくなることに加えて、空襲だ、戦死だっていうんでまわりでバタバタ人が死んでいく――それが戦争の実態であって、そういうことをあのボンボンの総理大臣(安倍シンゾーくんのことです)はホントに知ってんのかと思うんですけどね。〉
 つまり戦地で死んだり、空襲で死んだりというのはもちろん悲惨だけれども、その悲惨の一番中心は、戦争になると食い物がなくなってほとんどの人間が生きていけなくなるということなんだ、と。この実感はぼくらにはわからない。

 今回は「落語」で、落語に対する子どもの頃からの思い出から今日に至る落語への思いを語ってもらったのだが、テーマが何にしろ、小沢さんを貫いているのは、「人間、適度に貧乏なほうがいい」という思いだ。「3万円のお節の折りを買って食ってるようなやつに落語なんかわからない」という。「人生の辛酸を嘗めるほど、落語は面白い」ともいう。
 小沢さんは日本の民主主義なんか信じてなくて、「貧主主義」がいい。「デモクラシー」ではなく、「ビンボーグラシー」で行きたいという。

 ……というわけで、雑誌の取材ではあるけれど、折りにつけ小沢さんにお会いしてお話を聞くことは、ぼくの楽しみのひとつになっている。

(01:03)

December 24, 2007

美味い朝めし
 終わった、おわった、オワッタ――ぃ!
 何のCMか知らないが、「終わらない仕事はない」と謳っている。
 たしかにそうだ。“終わらない仕事はない”ということは、これまで何度も経験し、実感している。
 けれども、やっている途中は、“ホントにゴールにたどり着けるんだろうか?”といつも思う。とくに、終盤にさしかかり、マラソンでいえば終着点の競技場に入り、トラックを走っているあたりはホントに苦しい。

 マクロビオティックの雑誌に連載していた毎回見開き2ページのコラムを何とか1冊の本にまとめたくて、連載ページのコピーをあちこち持ち回って2年。ようやく、やりましょうと言ってくれるところに出会ったのが今年の春。カレンダーで見ると、初打ち合わせが3月だ。
 とはいえ、22回連載したそれではボリュームが足らず、倍ぐらいにしなければ1冊にならない。そんなことはぼくだってプロだものわかっていたし、連載時には書き足りないこともあったので、書き足しは望むことでもあったのだが……書き足しというのはできませんね。ほとんど書き下ろしになってしまった。その総量は、400字詰め原稿用紙に換算して320枚あまり。

 最初、夏の終わりぐらいには原稿を渡す予定だったのが、先行していたもう1冊の文庫本の作業があったりして手がつかず、その後、こういう長いもの(書籍)ばかりやっているとお金が入るのはず――――っと先のことで飢えてしまうので、直近でお金になりそうなちょっとした仕事があったので引き受けたのだが、これも短いものではなく160枚ぐらい書かねばならなくて、結局1カ月ほど取られてしまい、ようやく取りかかったのは9月に入ってからだったろうか。
 ところがメールのやりとの記録を見ると、原稿の第1弾を入れたのは10月の終わり。
それから何回かに分けて書き上げた分を送り、トラックに入って書きあぐね、最終ともいえる分を送ったのが、つい先週なのだ。
 何と、最初の打ち合わせから9か月、書き始めてから3か月半、入稿し始めて2ヵ月というスロー――――な仕事になってしまった。
 この間、ブログなど顧みる余裕もなし。

 編集者だから、他人の本をつくるのはやっていることだけれども、自分100パーセントの本を書くのは今回で2回目。それだけにやりがいはもちろんあるが、苦しい(作家のようになれていないせいか?)。
 それが、ほとんどようやく終わった。ようやく、というのは手直しなどあるからだが、これからは楽しみの部分だ。たぶん、この正月はゲラ直しとなるだろうが、うまくいけば2月には書店に並ぶらしい。

 かたちは新書となる。
 雑誌連載時のタイトルは『美味い朝めし』だった。
 が、編集部(というより編集者)が付けたタイトルは『朝めしの品格』。ウウム……。
 日本人の朝めしについて考察したものです。

(06:29)

May 28, 2007

小梅2キロ 今年最初に目にしたのは、わが庵最寄り駅に近いスーパー、S友ストアの店頭だった。
 値段を見たら1980円とあった。
 小梅の青梅だ。
 一緒に梅酒用の大きめの青梅も並んでいて、こちらも1980円。
 今年いちばん早い青梅の登場である。
 梅酒用は興味がない。悩んだのは小梅だ。
 梅はこれから出てくるのだが、小梅は一瞬なのだ。買い逃して、次がないこともある。
 ウーンと考えて、翌日も立ち寄った。まだある。
 買おうか買うまいか……我慢した。
 なぜか? あまりに高くてあほらしいからだ。

 それから2日。わが庵から駅へと続く道に八百屋がある。用事で出かける途中、店頭に自転車を止めたら、フフ、あるじゃないの。小梅が。しかも1袋1堝りで250円。
 買いましたよ、もちろん。2袋で500円なり。
 ただし、ここに小梅が出るかどうか、確約されたことではない。でも、以前、何度か買ったことがあるので、期待していた。だからS友ストアのはグッと我慢したのだった。
 キロ980円と250円。これは大問題だよね。

 とはいえ、前述のように“用事で出かける途中”であったから、2袋買ってお金を払い、「明日、取りに来るから」と頼むと、「ああ、いいっすよ」という返事。こんなことができるのも、街場の八百屋さんだからだと、つくづく思う。
 で、一昨日、雨だったが受け取りに行った。

 梅干は、大きいのももちろんいいけれど、小梅のそれも面白い。
 わが家の梅の木の梅も、小さいときに採ればそうなるのかもしれないが、そこのところはよくわからないし、どうせ採るのなら熟してからだと思っているので、小梅を漬けたいと思うなら購うしかない。

 去年は塩漬けではなく、これまで漬けた梅の、保存している梅酢でもって漬けた。これも悪くなかったが、今年は梅酢があまりないので、塩漬けにすることにした。
 なに、やり方は簡単だ。
’磴辰討た小梅をざっと洗い、一晩水に漬ける(アクを抜くためといわれている)
⇒眛、少しばかりの焼酎と、適度な塩を用意する。焼酎はカビを防ぐためであり、塩の量は好みによる。ぼくはキロあたり200グラム(20%)にした。塩が少ないとカビるからで、「10%」としているものもあるけれど、これだと容器を冷蔵庫に入れなければならない。

小鉢に少量、甲類焼酎を入れ、梅をつかんで放り込んでは焼酎に濡れさせ、塩をまぶして漬け込み用の容器(ぼくの場合は蓋付きのプラスチック)に入れていく。
ち管瑤鰺憧錣貌れたら、残った塩を全部入れ、落とし蓋をして、重しをかける。(ほくの場合は前にも書いたが、ダンベルのウエイトだ)重さの目安は梅1キロあたり1キロ。梅酢が上がってきたら半分にする。
 ――それだけだ。
 小梅の場合、干さなくてもよい。

 とはいえ、これは前哨戦で、本番は普通の梅で梅干しをつくることであって、今日も庭の梅木を見上げたのだが、はたしてうまく実ってくれるのやら……まだ何とも判定がつかない。



(01:36)

March 31, 2007


わが庵の最寄り駅前の桜2007

 

 

 

 

 

わが庵の最寄り駅前の桜

「花見に行こうぜい」
 と、不意に思い立って友人のIに電話したのは、水曜の夕方だった。
 金曜日(つまり昨日のことだ)の午後に九段下で人と会う用事があったので、出かけるついでだし、用事が終わるのは5時頃だろうから、そのあと落ち合って……というつもりだったのだけれど、「金曜日は雨らしいですよ」とIが言う。
「週末も天気はよくないみたいだから、来週にしませんか」
「雨が降るのに、来週で大丈夫かな」
「大丈夫じゃないですか。まだ咲ききっていないようだし」
 しかし、いま思い立ったのに、週を跨ぐというのは気勢がそがれる(このあたり、性格的にせっかちなのだ。仕事はスローなのにね)。
「じゃあ、いっそのこと明日にしよう」
「咲き具合はどうでしょうかね」
「なあに、開ききったうえに風雨に打たれた熟女より、乙女の桜のほうがいいじゃない」
 と、ぼく。ほとんどオヤジ的発想だが、ナニ、とにかく週のうちに花見という行事を終えておきたかったというだけだ。

 というわけで、木曜日の夕方、新宿にあるIが通っている事務所に出向き(ここはぼくの仕事先の一つでもある)、さらにそこで仕事をしている女友達2人を誘って花見に向かった。
 花見といっても、酒肴を用意し、ビニールシートを小脇に抱えて、などというスタイルではない。ぼくの場合は、桜の下をしばらく散策したのち、どこぞの店に入って一杯飲るというのがこのところのパターンで、例年なら市ヶ谷駅前に集合し、市ヶ谷土手の桜をめでながら飯田橋の駅まで歩き(ゆっくり歩いても20分くらいか)、そこで左折して牛込橋を渡り、神楽坂で適当な店を探すという、花見2割、飲み8割なのだが、今年はIの提案で、四谷スタートということになった。本当は、「新宿から歩きましょうよ」とIは提案したのだが、それでは花見か競歩会かわからなくなってしまう。

 新宿から地下鉄で四谷へ行き、まず四谷土手の桜を実ながら市ヶ谷へ。女のうち1人は仕事を片付けてから行ければ行くということだったが、途中ケータイに「参加できる。これから向かう」との連絡が入り、市ヶ谷駅で待ち合わせ。そして、4人そろったところで、市ヶ谷土手から飯田橋方面へ。
 結果的に“木曜日決行”は大正解だった。風はなく、馬鹿に暖かくて、花だって十分に開花している。その暖かさに誘われてだろう、木曜だというのに市ヶ谷土手にはネクタイ族の集団が数多く酒宴を繰り広げている。

 ぼくらはIの主導で、飯田橋駅ちょっと手前で右折。そこから九段へ出、靖国神社へと足を伸ばす。千鳥ヶ淵の桜は知っているが、靖国神社の桜はぼくは初めてで、脇から入ったら参道の両側には屋台がずらりと店を張っていて――射的なんてのもある――驚いた。
 また人出も半端ではなく、千鳥ヶ淵への道はお巡りが規制しているほどで、これも“暖かさに誘われてあちこちから這い出してきた”という感だ。
 だったので、ぼくたちは千鳥ヶ淵の桜は手前からちょっと覗いただけで、Uターンして飯田橋方面に向かい、ようやく神楽坂へ。しかし、その神楽坂も、テレビドラマのせいだといわれる近ごろの神楽坂ブームに加えて、花見帰りの客という要素が加わったのだろう、覗く店、覗く店、軒並み満杯で、脇道をいくつが探り、ようやく客が一組帰るから間もなく席が空くという居酒屋を見つけて、腰を降ろすことができたほどだった。
 四谷から始めて、歩くこと約1時間。その間、飲まず食わずである。夜になっても暖かく、歩いていると汗ばむほどで、この夜ばかりは、さすがにぼくも“とりビー”(とりあえずビール)から始めた。

靖国の桜

靖国神社の桜

 ……あとはいつもの飲み会と同じである。ぼくも含めて仕事場を同じくする者ばかりであるから、仕事の話が酒の肴になっていく。
 しかし、ぼくの頭の中には、別のこともあった。
 一昨年、がんで逝った年下の友人Kのことだった。Kもぼくと同様にこの会社の仕事をしており、しかも当夜のメンバーとはそれ以前からの付き合いがあった。だから生きていれば、そして時間があれば、この場にいたはずなのだ。実際、Kとこの花見行をやったことがあり、そしてKが死んでから、いや、がんが見つかり入院してから、これをやるのは初めてのことだった。
 四谷から神楽坂まで歩いている途中、ずっとそのことが頭を離れなかった。
 Kは死に、ぼくは生き延びて今年の桜を見ている。この2つを分けるものはいったい何か――。
 それは人によっていろいろな解釈があるだろう。
 しかしいまのぼくは、ラッキーとアンラッキーというほどのことでもなく、放り上げたコインが落ちて出た目が表か裏だったか、単にその程度のこととしか思えないのだ。

  逝きし友と我とを分ける桜かな タオ

 昨日(金曜日)の雨は朝のうちに止み、ぼくは約束通りに九段下へ出かけ、ついでだからあらためて明るいうちの九段の桜を見ながら帰った。しかし、風が強くて肌寒いばかりだった。



(22:34)

December 13, 2006

 わが庵〈酔夢楼〉には文豪が棲まっている。
 名を言えば、誰もが知っている文豪である。

 目に見えるわけではない。
 手触りがあるのでもない。
 しかし、たしかに棲んでいる。
 いわば霊のような存在である。

 霊のようなものであるから、増幅されているのであろうか。
 まるで彼が3人いるような感じである。

 そはたれか。
 教えよう。
 坂口安吾だ。

 ワタシハタレデセウ

 

 

 

ワタシガサカグチデス。

 時、師走。
 例年のこととして、アタマが痛いのは大掃除だ。
 大掃除しなければ、新しき年を迎えることはもとより、冷気を凌ぐ炬燵を出すこともできぬ(一軒家は下がすぐ地面だから床からしんしん冷えてくるので、炬燵なくして冬は越せない)。
 しかるに、わが庵は本、雑誌、仕事の資料、その他実にさまざまなものが散乱し、かつ至る所――居室といわずキッチンのあるフローリングのスペースといわず――山積みになっており、人を招くこともできないばかりか、あるじとて玄関から居室までは一直線で行けるはずなのに、真っ直ぐ歩けないようなありさまにあるからだ。
 だから、片づけや掃除ということになると、どこから手を付けてよいのやら、途方に暮れてしまうのが常だ。

 たがせいか。
 その文豪の霊のようなものが、しかも3人分ほど棲まっているせいとしか思えない。
 ちっとはあるじの仕事のほうに乗り移ってくれればいいのに。


 



(21:36)

November 26, 2006

『幕内秀夫のがんを防ぐ基本食』

 

 

 

 

 

 

 いやー、どれぐらいぶりだろう?
 久しぶりに、エディター(編集者)として本を1冊拵えた。
『粗食のすすめ』で知られる幕内秀夫さんの

『幕内秀夫の がんを防ぐ基本食』(筑摩書房刊。本体1400円)

 デアル。
 幕内さんが、がんのホリスティック医療で知られる帯津良一先生の帯津三敬病院で、がんの患者さんの食事相談・指導を長年担当されていることは、よく知られていることだが、がんと食事についてどのように考え、どのように指導しているのかは、たぶん指導を受けた人でないと知らないと思う。

 そこで、某がんの雑誌(今夏潰れてしまったが)に、そんなテーマでぼくが企画し、1年=12か月にわたって取材してまとめてきた(この部分はライター仕事となる)ものをベースに、出版者の担当編集者(♀)が「ここのところが、よくわからん」という部分などについて再取材・加筆し、そこに幕内さんの豊富な(数千人に指導してきたという)データを元にケーススタディ10例を追加、さらに帯津先生との対談を付録して1冊にした。

 がんという病は、突拍子な病ではない。ぼくらが生きていることとセットになっている病だといっていいと思っている。
「どんな食事をしているか」は、食がむちゃくちゃな状況にある現代においては、「どのように生きているか」ということと同義語でもある。
 このあたりはスローフード運動と一脈通じるところでもあると思うが、そんなことも思いながら拵えた本だ。

 とはいえ、雑誌連載が04年2月〜05年1月。筑摩が本にしてくれるという話になり、幕内さんに再取材したのが05年5月。
 幕内さんと帯津先生の対談が同11月。そして、本になったのがこの11月……と、連載開始からは足かけ3年、出版が決まってスタートしてからも1年半。
 時間だけで言ったら、これは労作といっていい(ぼくも出版社もお互い“スローワーク”だけだった話なのだけれども)。でもって、いただける報酬は著者・幕内さんとの印税のシェアだけだから……言わぬが花である。   



(05:42)

May 05, 2006

Kの病室の窓から見えた風景

 

 

 

 

 

Kの病室の窓から見えた風景(2つ目の多摩の病院)

 5月。
 5月を、「忘れないで 時は流れすぎても」とハスキーな声で最初に歌ったのはブレンダ・リー(『想い出のバラ』)だったが、忘れようがない。まだ1年なのだから。

 同業の後輩として紹介されたのが最初で、ここ10年近くは一緒に仕事をすることも多く、しかもお互い酒飲みであったから、ゆえに一緒に酒を飲むことの最も多かったKが、10カ月余の闘病に力尽き、がんで逝ったのが昨年5月で、あと5日ばかりで世間の習俗でいえば1周忌がやってくる。
 上記の諸条件に加え、Kもまたぼくと同じく離婚者で、元妻・子供たちとは居を別にし独り暮らしだったことと、この病の治療についてはぼくの仕事の領域の中で多少心当たりがあったことなどから、「調子が悪い」という最初の症状の相談から最後を迎えた病院の紹介と手配、そしてその死まで付き合った。

 といっても、病院の紹介等のほかは、月に2、3度見舞いに行き、ほんの短い時間、他愛もない世間話をして帰ってくるだけだったから、お世辞にも“面倒を見た”などと言えるものではない。では、誰が日々の面倒を見ていたかというとKの兄で、この兄貴もまたぼくやKと同様、独り者でフリーの編集者だったから、できる限り弟に付き添い、世話をし、合間を見て仕事をこなし、そして最後をベッド脇で看取ったのだった。
 ぼくはと言えば、この兄貴とはKが最初の病院に入院した時に初めて知り合ったのだが、そのあとはメールや電話で様子や症状の変化を聞いたりしていたに過ぎない。

 それにしても、弟とはいえ男手で1年近く病人の世話をするというのは並大抵のことではなかったと思う。しかも、Kは最初に見つかった脳の腫瘍の手術の影響で身動きに不都合が生じ、以降死を迎えるまで、ベッドか車椅子だったのだから。

 通夜・告別式は、“たぶん弟は嫌がるだろう”と坊主は呼ばず、だからお経もなかった。集まったほとんどは友人と仕事仲間だった。
 兄貴は、K――生まれは大阪――が奈良が好きだったから、このあとは奈良を訪ねて、弟が好きだと言った場所に遺灰の一部をこっそり撒いてくるつもりだと言い、その報告は、1カ月半ほど経った頃に、ぼくが知っている範囲の友人たちに声をかけて、ぼくとKがよく酒を飲んだ新宿の酒場であらためて“偲ぶ会”的な集まりを開いたとき(最近の斎場での通夜は時間が短いし、忙しないから)に、彼から聞いた。
 だから、例えば唐招提寺の敷地のどこかには、Kの遺灰が何食わぬ顔をして土に混じって在るはずだ。

 その後はとくに兄貴とコンタクトすることはなかった。「くたびれたので、北海道の友人ところへ行って、友人がやっているNPOの手伝いをしながら、しばらく心身を休めます」というような連絡をもらったきりになっていた。

 そして、時がひとめぐりしての5月。
 Kの兄はどうしているのだろう……と思っていたときに、彼から以下のようなメールが届いた。発信場所はマレーシアのペナンらしい。何でそんなところにいるのか……。


《 ご無沙汰しております。皆さま、いかがお過ごしでしょうか。

 早いもので、あれから1年が巡ってこようとしています。昨年秋には、納骨も済ませました。本来なら、仏壇の前で1周忌を行う筈ですが、思うところがあって、先月の初めに私は日本を発ちました。

 一昨年6月の緊急入院から最後の日まで、1日も病院を離れることのなかったKは、かつて訪れた国内外の思い出を、ベッドの上で繰り返し懐かしそうに語っておりました。中でも、20代後半に廻ったタイ〜マレーシアの印象はことさら強烈だったようで、その時の話になると、「チェンマイの落日は凄かった」「ロティ・チャナイ、旨かったなァ」などと楽しそうでした。その彼のために、手許に少しばかり残っていた遺灰を、それぞれの土地に撒いてやろう、と考えて出た次第です。
 先月には、タイのチェンマイを流れるピン川の川面に、そしてここペナンでは、今朝、ジョージタウンのビーチに散骨してきました。花も酒も無い、シンプルなセレモニーでした。朝日が実に爽やかで、仕事柄、夜型人間だった彼には、多少、眩しかったかも知れません。

 この後、クアラルンプール経由で東海岸を廻り、6月始めにはバンコクから帰国の予定です。 》


 葬儀の後には、Kが好きだった奈良を回って遺灰を撒き、1年後のこんどは同じくKにゆかりのアジアのあちこちで遺灰を撒いている。
 この行為を言葉にすれば「供養」ということになるだろう。
「供養」とは、逝ってしまった者の死を悼み、そのたましいに「安らかにあれ」と鎮める儀式である。
 しかし、このメールをもらって思った。
 それはひとり死者のためだけでなく、生き残り見送った者にとっても、その死を受容し、悲しむ己のたましいを鎮めるための儀式なのかもしれない、と。

 その意味で、このメールをここに載せたことを、Kの兄には許してもらいたい。
 この一文もまた、ぼくの、Kの1周忌の「供養」ということで……。



(22:09)