酔夢楼日常

May 03, 2010

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龍村仁監督の『地球交響曲 第7番』が完成、5月1日に完成披露試写会があると知ったのは一昨日のこと。たまたま別件で上野圭一さんに電話したときだ。
場所は明治神宮会館。第7番の登場人物の1人はアンドルー・ワイル博士で、来日しているという。

前日のことゆえ、もうダメかと思ったが、最悪の場合、上野さんを呼び出して何とか入れてもらおうと仲間の佐々木さんと会場に向かったら、何の何の当日でも余裕で入ることができた。

映画の中でのワイル博士のテーマは「自発的治癒」だったが、それより笑ったのは彼の日本趣味。和の朝めしが好きで、ごはんにアサリの味噌汁、大根のみそ漬けを作って食べているシーンが出てくる。

2日前には上野さんが住む伊東にやってきて、定宿になっている旅館に泊まり、地元で獲れる魚介類の和の食事と温泉を堪能したらしい。

休憩時間には龍村監督に完成のお祝いを述べ、終了後には博士に頼んで上野さんとの写真を撮らせてもらった。ワイルさんはいつも愛想がいい。「10年前に、銀座で一緒に蕎麦を食べましたよ」というと、「憶えいてるよ」と言ってくれたけど、本当だろうか(笑)。

ちなみに、映画で博士の声を担当しているのは油井昌由樹さんで、会場にきていたのでお声をかけて短い話ををした。ぼくの田舎の友達が彼と映像関係の仕事をしていて昔から知っているが、油井さんと会うのも20数年ぶり。

このところ古い知り合いに会うことが多い。
何か意味があるのだろうか。



(00:42)

April 28, 2010

 その日――4月16日金曜日の夜8時半頃。新宿厚生年金となりの小さなライブハウスのステージにぼくは呼び出されて立っていた。
 スタンディングで100人ぐらいは入るというその客席は、雨が降っているというのにほぼ満員。
 見渡すと多くはネクタイ族のオッサンだ。
 ぼくの紹介があると会場からウォーッという歓声が上がり、客席から握手の手が伸びてくる(オープニングから1時間半、客はすでに酔っている)。
 ぼくは短い挨拶をして、隣のギタリストに合図を送り、ある歌を歌い出した……。

 何でぼくがそんな場所にいて、歌を歌ったのか、話は長いのだけれど、かいつまんでいえばこういうことだった。
 ちょうど30年前に、ある歌を作った。当時、毎晩のように通っていた新宿ゴールデン街のある店の1周年記念として店のために作ったものだった。
 この歌は、客のカンパで私家版、いまでいうインディーズのEPレコードとなった。ぼくとしては自分で歌うつもりはなかったのだけれど(もっと太い声が似合うと思っていた)、結局ぼくが歌うことになった。いま聞くと、音程は不安定だし、声は出ていないし、我ながら忸怩たるものがある。ところが、そのことが朝日新聞に載った。客できた記者が東京版に何と五段抜きで書いたのだ。私家版に協力してくれたのはぼくの友人で、それを見て「これはメジャーから出せる」と動いてくれ、彼をディレクターとして吹き込み直し、いまはなきトリオレコードから出た(ちっとも売れなかったけれど)。

 そのレコードが出てから5年ほどもたった頃だっただろうか、ときどき顔を出していた同じゴールデン街の「K」のママ、Mちゃんがその歌を気に入り、余分があれば1枚ほしいといった。その店には昔懐かしジュークボックスがあり、そこに入れたいのだという。手元にまだ2〜3枚あったので1敗進呈した。
 これが20数年前の話だ。

 それから幾星霜、先月だったか先々月だったか、ある人に誘われて久しぶりにその店を訪れた。店の場所は変わったが、カウンターだけの狭い店だ。ジュークボックスは健在で、驚いたことにぼくのレコードはまだ入っていた。リクエストしたら、当時の若くて下手くそなぼくの歌が流れてきた。ところが、Mちゃんが、「この歌を作った人です」とぼくのことを紹介すると、10人ばかりいただろうか、客から歓声が上がったのだ。
 なんだ、なんなのだ、これは……。

 Mちゃんが歌が好きで、客を呼んでときどきライブをやっていることは聞いていたけれど、一度もいったことはない。ところがいまや、年に1回のライブハウスのほか、お店でも月に1回狭いカウンターにバンドを入れてやっいるのだという。そして、そのオープニングにぼくの作った歌を歌っているのだというのだ。つまりKの常連ならみんな知っていた。
 そして4月にはライブハウスでやるから、「ゲストで歌って」といわれたのだった。

 だから、その日ライブハウスに集まってきたのは、基本的にKの客だから、ほとんどがオッサンなのだった。
 もうすでにMちゃんがオープニングの3曲目ほどにぼくの歌を歌ってはいたのだけれど、1時間ほたってステージに呼び出され、紹介されると、あらためて歓声が沸いた。ぼくは直前にちょっとだけギタリストと打ち合わせをし、前奏はいらず歌から行くからと、短い挨拶のあと、キーであるGの音をもらっていきなり歌い出した。その歌をプロのミュージャンがしっかり支えてくれる。仲間内のカラオケなどでは感じられない、ライブの快感。そいつがケツの辺りから背骨を通って立ち上ってくる……。

 以降の歓声やサビの部分の客との大合唱、ステージを降りてから何本もの握手の手がのびできたことなどはどうでもいい。
 ただ、ぼくが作った歌が30年という時間を超え、いまだに愛して歌ってくれている人がいて、その店で“いま”の歌として愛唱している人がいたという事実にぼくは打たれた。
 こんな幸せな歌はあるのだろうか。
 そのことはまた、作った人間にとってもだ。

 ちなみにその歌は『酔いどれブギウギ』という。
 ありがとう。


(18:22)

March 14, 2010

898541c7.jpg 昨年秋、ぼくがインタビュー・構成をした1冊の本が出た。
 宇都宮健児という弁護士の自叙伝で、タイトルは『弁護士冥利―だから私は闘い続ける』(東海教育研究所刊)。
http://www.amazon.co.jp/弁護士冥利―だから私は闘い続ける-宇都宮-健児/dp/4486037138/ref=sr_1_2?ie=UTF8&s=books&qid=1268499913&sr=1-2

 愛媛の貧しい半農半漁の家に生まれ、小学生時代は大分の山の中で開拓民生活。中学・高校時代は熊本に出てきて、親戚の家などに身を寄せながら、家族を早く楽にさせたくて“東大一直線”。一発合格を果たしてからは、“弱者の味方”弁護士を目指して、東大在学中に司法試験に合格――と、ここまでは田舎のエリートだったが、弁護士になったはいいけれど、独立できないままに2つの法律事務所で十数年間イソ弁(居候弁護士)暮らし。自らを“落ちこぼれ弁護士”と称す。
 そうした中で回ってきたのが、ほかの誰も手をつけない多重債務者からの相談で、何もないゼロよりはましだからと、仕方なくこの問題に取り組みはじめる。
 以来30年、まだ野放しだったサラ金から始まり、バブル崩壊後のクレジットカード、違法な貸し付け・取り立てのヤミ金、中小企業を食い物にする商工ローンなど、さまざまな貸金業者を相手に闘い、弁護士としてのこの分野を切り開いたほか、豊田商事事件をはじめとする詐欺事件、オウム真理教事件などの被害者救済などにも取り組んできた。
 近年は、貧困・格差社会の問題に積極的に取り組み、一昨年末の日比谷公園の派遣切り村では名誉村長として相談に当たったことで知られる。

 こうした半生を、宇都宮さん自身が自分も実感し、また依頼者にも言ってきた「人生はやり直せる」という言葉をキーワードに、出自から今日までを時間軸に沿って綴ったものだ。

 とはいえ、この仕事はなかなかにつらかった。
 インタビューだけで20時間ぐらい。こいつをまず起こす。自叙伝だから、なるべく土地や生活の風景を共有したいので、かなり細かく聞いているつもりだが、実際に文章化する際になると、そこがむずかしい。また、書きながらよくわからないところが出てくると、その次のインタビューの時に確認してもらうことになる。
 例えば、先生の父君は戦闘機乗りで、終戦間近にビルマで米戦闘機に足を撃たれ、日本に戻って箱根で10ヶ月療養した、という話があった。これがよくわからない。箱根には陸軍の温泉療養所があったことは調べたらわかったが、場所が違う……こんなことが多かった。

 次に法律的な問題で、いったい何が問題で、それに対してどうしたかという話。法律やその手続きにはほとんど無知だから、話に出てきたそれらにはいちいち当たらなければならない。というか、こっちがわからなければ書けない。かといって、そんな基本まで先生に聞いていたら進まないからウェブなどで調べながら、間違っていたら先生に直してもらえばいいと思いつつ書く。

 事件ものは先生が専門誌に書いたレポートがあり、先生の話を元に、できるだけ物語化しようと苦心した。
 先生から訂正が入ってきたものについては、元原稿から直すのが早いからと頼まれたのだが、ぼくに戻されてきたものは、一度直しを入れて渡した、それ以前のもので、つまりあらためてこちらからの直しを入れつつ、先生からの訂正を反映し、なおかつ時間がないと編集者から言われ、大急ぎで手を入れて渡したら「文章が変ですよ」と言われた。
 そっちが戻すゲラを間違え、しかも直しを急いだせいじゃないの?

 言い忘れたが、この仕事のオファーがあったとき、「おまえの高校の先輩だぞ」と言われた。熊本県立熊本高等学校だ。ところが、宇都宮さんと初めてお会いしたときに、いろいろ話していたら、中学(熊本市立西山中学校)の先輩でもあることがわかった。

 この宇都宮さんが先日(3月11日)、多くの弁護士に推され、日本の弁護士の最高機関である日本弁護士連合会の会長に就任した。

 偉ぶらない、気さくなオッサンである。


(03:14)

February 12, 2010

 立松和平さんが亡くなった。
 多臓器不全というから、がんだろう。

 立松さん(本名は横松でヨコをタテにした)と初めてお会いしたのは20年前、キューバ取材にご一緒したときだった。
 キューバ大使館が「取材にきてくれれば優遇する」という話を友人が持ってきて、こんなことでもないとキューバなんぞへ行く機会はまずないなと思ったので、雑誌2誌に話をもちかけ、僕は『週刊宝石』で行くことにし、立松さんが以前からキューバへ行きたいと言っていたことを知っていたので、『スコラ』に話をし、立松さんは同誌がお誘いした。この2誌ともいまはない(悲)。

 バブル崩壊前で、メキシコまでの往復の飛行機はJALがタイアップしてくれ、僕は後にも先にもこの時だけビジネスクラスで飛んだこともいまとなっては懐かしい。

 男ばかり5人のこの旅は、いろいろすったもんだがあったが、そのことも含めて非常に面白かった。5人もいたのに、中で一番英語ができたのが立松さんで、現地ガイドの黒人のおばちゃんがスペイン語−英語の通訳だったから、必然的に立松さんが日本語への翻訳をする役目を負わざるを得なかった(ただし、立松さんは僕らより4日ほど早めに帰国しなければならず、その後がまた大変だったのだけど)。

 その立松さんの英語も、やっぱり栃木弁のイントネーションだった。

 キューバの名産品の1つは「ハバナクラブ」にた代表されるラム酒だが、もう一つが葉巻で、その最高峰が「コイーバ」だ。僕らが行く前に、立松さんと文学仲間だった北方謙三さんが『ブルータス』でキューバを訪れており、コイーバの話も書いていた。
 その雑誌コピーを立松さんに見せたら、「何で北方なんかがキューバに行くんだよ」とライバル心を見せていた。
 だから、キューバではコイーバを探した。いまはどうか知らないが、どこにでも置いているものではなく、滞在中ようやく1ハコ(フルサイズのものが20本入っている)を見つけ、立松さんにお譲りした。たしか1万円程度ではなかったかと思う。
 その後、早い時期に北方さんにインタビューする機会があり、その話をしたところ、
「何でワッペイがキューバに行くんだよ」
 と言った後、「電話して、コイーバを分けてもらおう」
 と漏らしたのが二人の仲を現しているようでおかしかったことを憶えている。

 その後、立松さんとは取材で何度かお会いした。いつも栃木訛りで訥々と話してくれた。ここ数年はお会いする機会はなかったが、その存在はキューバ以来(ここに書けないエピソードもあって)いつも心のどこかにあった。

 ご冥福をお祈りします――というのが常套句なのだろうけれども、僕はまたいまのキューバにご一緒したかったな。

(03:50)

November 01, 2009

 この11月9日は「ベルリンの壁崩壊」から20年なのだそうだ。
 それを報じるテレビニュースを見ながら、「えっ、もう?」という時の流れの速さを感じずにはいられない。

 その年の夏、ぼくはキューバにいた。「キューバに来れば歓待するとキューバ大使館が言っているけれど、何か仕事をつくって行かない?」という友人の誘いに乗ったものだった。
 それで仕事の話を持ちかけたのは、いまやいずれも亡き『週刊宝石』と『スコラ』。『スコラ』は誰かを連れて行きたいというので、作家の立松和平さんを誘い、カメラマンを含むオトコばっかり5人でキューバへ行った。

 この旅――キューバ滞在は10日ほどで、前後併せて2週間――は、入国時のホテルが見つからないというトラブルから、クライマックスは首都ハバナで行われた革命記念日に合わせたカルナバル(カーニバル)、そして出国時のぼくの強盗事件まで、まさに珍道中で、その面白さはいまでも熱く語ることができるほど強烈で面白かったこと満載で、それがどのようなものか聞きたければ、ぼくに連絡をください(笑)。

 で、日本に帰って仕事を納めたら(結局赤字だったけれども)、秋風が吹くようになってバタバタと東欧革命が起こり、ベルリンの壁が崩壊したのだった。
 ぼくらのキューバ取材は、結局観光案内のお先棒を担ぐようなものだったから、もし滞在中に起こったら、きっとそういう問題の取材を求められたに違いない。
 それを思って胸をなで下ろした記憶がある。

 とはいえ、「またどこか行きたい外国があるか」と聞かれれば、いまもキューバだ。
 誰か誘ってくれません?

(07:04)

October 01, 2009

31cfa0d9.JPG帯津良一先生







 昨日(9月30日)の夜は、ぼくが関わっている非営利市民団体の催事。帯津良一先生を招いての「ホメオパシー」講座だ。
 ぼくがつくって8月に出た『こころ、からだ、魂に響く〜ホメオパシー療法』を口実に、先生に講演をお願いした。

 帯津先生には必要に応じてお会いしているし、後輩の最後も帯津先生にお願いして最期を送っていただいたけれど、親しいからといってあらためて講演をお願いするのは至難の業。本業の医業や原稿執筆のほか、土日の講演依頼は目白押し、ちょっとでも空き時間があると会いたい人が押し寄せる。ようやく時間をいただいたのが昨日の夜だった。

 参加については事前に申し込みをいただいたのだけれども、半月前には予定人数(50人)をオーバー。そのあたりで受付終了とウェブでは告知したけれど、開演直前まで申し込みがくる。
 結局、受付を閉め切るまでの70余人がきて、超大入り満員。
 出版社が用意した『ホメオパシー療法』の本50冊も完売した。


 もっとも、見ていたらホメオパシーという代替療法よりも、とにかく帯津先生に会って顔を見、話を聞きたいという人が多かったように思えたのだが……ともあれ、満員御礼、本の完売ということはうれしいことだった。

 いつも、こんなふうにいけばいいのに……。

(02:30)

September 01, 2009

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  がんのホリスティック・アプローチで知られる帯津良一先生の知己を得たのは、もう20年以上昔。ぼくが初めて太極拳――揚名時太極拳だった――を教えてもらった先生から太極拳の本作りを頼まれ、共著者が帯津先生だったのだ。
 当時、先生は世間的にはまだほとんど無名で、「病院で太極拳を教えている医者がいる」ということだけで先生にお会いし、呼吸や動作の意味についての原稿をいただき、残りはぼくがでっち上げてつくった(この本は、何といまでも市場にある。読むなよ)。

 その後も、いろんなことで帯津先生とはお付き合いがあり、その中で、ぼくの従兄弟が帯津先生と高校時代の同級生であり、現在も川越の帯津三敬病院で定期検診を受けたり、漢方薬を調合してもらったりしていることがわかって驚いたこともあったりしたが、なぜか先生の本をつくる機会というのはなかった(メディアに頼まれて雑誌記事を書いたりすることはあったけれども)。

 だから、いつか1冊つくりたいと思っていたのだが、ようやくそれが叶ったのが、
  『こころ、からだ、魂に響く 帯津良一のホメオパシー療法』
 という本だ。
 帯津先生はこの10年ほどホメオパシーに強い関心を持って、がん治療に取り入れている。このテーマだけはぼくがやりたかったので、がんの雑誌の連載として毎月先生に会い、お話を聞いてまとめたものを12回連載し、それをベースに大幅に加筆して1冊にまとめた。
 出版は、何社か断られたけれども、ホリスティック医学関係で知己のあったビイング・ネット・プレスの野村社長が引き受けてくれた。タイトルについては、ぼくは『私のホメオパシー』としたかったけれども、野村さんといろんな議論を重ねた末、上記のタイトルに落ち着いた。

 その制作過程の中で、もう一つやりたいことがあった。
 それは、カバーに宮迫千鶴さんの絵を使うことだった。宮迫さんは先生の理解者の一人であり、昨年亡くなったが、その最後も帯津三敬病院だった。
 そして、ぼくの大好きな女性でもあった。

 代替療法は女性性の強いものであり、ホメオパシーをイメージした時に、ふっと「宮迫さんの絵で行きたい」と思ったのだ。
 だから、今回の本は、一見、帯津良一らしからぬ装丁になっている、と思う。

 知り合って20余年。ぼくも老いたが、先生も70歳を越えた。いつ逝ってもおかしくない年齢で、間に合ってよかった(こらこら)。

 本の詳細については
http://camunet.at.webry.info/200908/article_1.html

 また、先生のホメオパシーの講演会もあります。
http://camunet.at.webry.info/200907/article_3.html



(07:15)

May 04, 2009

 忌野清志郎が死んだ。
 そのことについては何も言うことがないが、東京に出てきて最初に見たのがRCサクセションだから、ちょっと書いておきたい。

 東京で高校生のフォークバンドがデビューしたのは、当時ぼくも田舎のフォーク少年だったので、ラジオで聞いて知っていた。それがRCで、『宝くじは買わない』『イエスタデイを歌って』という楽曲は聴いていた。しかし、レコードとライブは違うことを東京に出てきて思い知らされた。

 場所は渋谷・公園通りのいまはなき「ジアンジアン」。当時はここと、すぐ近くの「青い森」(じつはこっちは行ったことがない)が東京フォークのメッカで、RCのほか古井戸とかデビュー前の五輪真弓などが歌っていた。

 大学受験の時か、落っこちて東京出てきてからかもう憶えてはいないけれども、高校の一年先輩で「東京に出てきたら一緒にバンドをやろうね」と話していた彼に連れて行かれたのが「ジアンジアン」だった。
 前座が五輪真弓で、ぼくたちは最前列の席で見ていたのだが、ジョニ・ミッチェルやキャロル・キングをギターの弾き語りで聴かせ、「やっぱ、東京はすごかばい」と大いに思わせてくれたのだが、残念ながら風邪でも引いていたのか、鼻水が止まらない。それを手で拭い、啜り上げながら歌っているのだが、ぼくらは最前列にいるのでよく見える。
 以来、彼女はぼくらの間で“はな垂れ真弓”と呼ばれることになる。

 メインがRCサクセションで、これには驚いた。アコースティックのフォークギター2本にウッドベースという構成なのに、その音の大きいこと。チャンチャラチャラチャラ、ギターをかき鳴らしているぼくらとは大違いの音量なのだ。だから、途中でギターの弦も切れる。すると、キヨシロー氏はジーンズの尻ポケットからおもむろに新しい弦を取り出し、「次のは『チューニング』という曲です」など言いながら、弦を張り替える。
 あるいは首からホイッスルを紐で提げて、出ていこうとする客にホイッスルを鳴らして注意する……。
「東京のフォークシーンはすごかねえ」
 と、つくずく思わされたことだった。

 当時、「ジアンジアン」は月に1回、新人オーでションをやっていて、ぼくらも受け、優勝はダ・カーポという男女デュエットだったが、ぼくらも何とか合格者ライブとでもいうものに出ることができ、メインがRCだった。当日、楽屋でギターをチューニングしていると、バンダナを頭に巻いたキロシローがやってきて、ぼくが吸っていたタバコ「ハイライト」を見て「1本、いただけませんかね」と言ったので、もちろんあげた。

 それからどれぐらい後のことだろう。
 日比谷の野外音楽堂に上田正樹とサウス・トゥ・サウスを見に行った。
 前座が古井戸のチャボを迎え、すでにロックバンドとなっていたRCだったのだが、演奏を始めるやいなや、場内総立ちで、メインの上田正樹はすっかりかすんでしまった。ぼくは、「何だ、楽曲はフォークバンドの頃からちっとも変わっていないじゃないか」と思いつつも、その勢いを感じざるには負えなかった。

 それからまた何年か後。
 雑誌をやっていたぼくは、新作アルバムについてキヨシローにインタビューしたいと事務所に申し込んだ。それは断られたのだが、その時のマネージャーの言葉がいまだに忘れられない。
「あいつの歌の世界は、いまだに高校生のままなんですよ」
 キヨシローは同い年だと思っていたけれど、わずかに1学年上だった。

(01:17)

November 28, 2008

 背中の背骨の左側、それも上から手を伸ばしても下からやっても指先がやっと届くかどうかという真ん中あたりに、なにやらコリコリする小さな塊がある。
 たぶん脂肪の塊だと思うが(医者に言わせると年を取ると出やすいもので、とくに背中が多いとか)、この辺りが夜中、パソコンに向かっているときなどにときどき痒くなる。それである時、100円ショップで「孫の手」を見つけ、以来、痒くなると孫の手でガシガシやっていた。あ〜気持ちんよか……。

 ところが、2週間ほど前からその辺りに痛みを感じるようになってきた。
 心なしか腫れているような気がする。
 それでも初めは気にならなかったのだが、痛みがだんだん増してきて、仰向けに寝ると不具合を感じるようになってきた。
 そのうち何かジュクジュクした感じになり、これは医者に行かねばならないかな――と思ったのだが、そこはそれ、基本的に医者嫌いである。それで孫の手の先にテッシュペーパーを巻き付け、消毒液を含ませては、その辺りになすり付けるというようなことをやっていた。こんな時に感じるのが独り者の不便さだ。どうなっているのかもわからないし、何をかなそうと思ってももどかしい。

 先週の金曜日(21日)はぼくの出版記念パーティーだった。ぼくの2冊の本(『朝めしの品格』『がんを防ぐセルフヒーリング』)の出版を祝ってくれようと先輩たちが企ててくれたもので、ぼくとしてはどちらも2月の出版だから一度は辞退したのだけれども、「出版不況の時代に2冊も出してもらえるというのはめでたい。ぜひやるべきである」という強いおすすめから、ありがたく開いていただいたものだ(晴れがましいことは苦手なので当日まで気が重かったけれども)。
 その前日、20日の夜は、いま取り組んでいる“サラ弁”宇都宮健児弁護士の自叙伝のためのインタビューだった。ぼくの高校(熊本県立熊本高等学校。略称クマタカ)の先輩だぞ、と依頼された時に言われたのだけれども、最初にお会いして話したら、何と中学も同じ。そういうことは、インタビューに多少緩やかさをもたらしてくれる。
 で、出かけるのでTシャツを脱いだら、背中部分に薄く赤いシミができている。ちょっとやばいかなと思いつつ、新しいTシャツに着替えて仕事に向かったのだが、どうも背中が気持ち悪い。ときどき張り付いたりしている。
 夜遅く家に帰って脱いでみたら、血と膿とが混じったような大きなシミができていて、「あ、こらいかん」と覚悟した。

 実はその前日に、自宅近辺の皮膚科をネットで探し、適当だと思われるクリニックに電話で相談したところ、それは外科的処置が必要かもしれないからと“胃腸クリニック”という名前の病院を紹介されていた。何で胃腸クリニックかと思ったが、ネットで見ると外科もあるからで、夕方6時過ぎだったと思うけれどもそこにも電話し、症状について相談した。ところが翌日の木曜日は休診日だという。
 そこであらためて電話することにしたのだが……間に合わず、腫れ物が破れてしまったのだ。

 パーティー当日。午前中にクリニックに電話し、お昼ちょうど頃に自転車を漕いで向かう(最寄りの駅前の新しいビルに今年2月にオープンしたばかりだという)。Tシャツを脱いで患部を見せたら、「ほほう、立派なものですね」と院長は笑う。
 処置としてはちょっとばかり切開し、膿を押し出すというもので、局所麻酔をしたというけれども、押し出されるときの痛いのなんのって。こんな時には“息をゆっくり吐く”のだけれども、それにしたって猛烈に痛い! 次に、何をしているのか見えないからわからないけれども、たぶん傷口にガーゼを押し込んでいるのだろう、このグイグイも痛い!
 受診前に受付で体温を測ったら、37度台あった。前日の取材時からからだが怠かったのだが、これは背中の化膿と免疫の闘いだったのだろう。
 そうして処置を受け、ビルの1階の薬局で処方された抗生物質、痛みと熱があるので鎮痛解熱剤、その鎮痛解熱剤は胃を荒らすので胃薬(アスピリン系なのだろうか)の3種を買わされ、一度家に戻ってちょっと休憩してから、時刻にパーティーに出かけたのだけれども……。

 身体への強い痛み(この場合は治療の時のそれ)はストレスとなってからだから元気を奪う。一方、37度台という半端な熱もぼくの場合は一番元気を奪う。だから、会場のある新宿に着いた時には若干ヘロヘロで、これじゃいかんと道すがらドラッグストアで「リポビタン・ローヤル」とやらを購って店頭で飲んでちょっとばかり元気の元を仕入れ、さらに事前に電話して紀伊国屋前で待ち合わせていたナチュロパスの女友達と落ち合い、会場の片隅でしばらく首筋から肩、頭部へのマッサージを受けたりした(早めに行ったつもりだったが、どんどん知り合いが来て、何をしているのだろうと訝しげな目で見ていたけれども、それどころではなかった)。
 会は50人を超える友人・知人が集まってくれ、盛況だったのだが、それでもイマイチダメで、本来なら朝まで付き合わなければいけないのに、たいして飲まないまま、終電で帰ってしまった。

 ……以降、ずっと毎日、クリニックに通っている。院長に言わせると回復に向かっているらしい。しかし、毎回のガーゼの取り替えは相変わらず痛いし、微熱も去らない。
「来る前に傷口のカバーを外してシャワーを浴び、またカバーしてくれば治りが早いかも」
 だから……。
「ああ、独り者か。手も届かないところだけに、むずかしいことですよね」
 苦笑まじえにそう言われたのは、昨日の夕方のこと。

 独り者の背中は哀しい。

(03:32)

July 27, 2008

 しょーもない連想話です。

\里ら気になっていたことだったが、何かのおりにまた思い出した。
 ぼくはいわゆるフォーク世代だ。フォーククルセイダーズの『紀元二千年』が中学3年だったか。そこから関西フォークにはまり、谷村新司などロックキャンディーズの頃から知っているし、井上陽水がアンドレカンドレという名前で歌った「カンドレ・マンドレ」という歌も知っている。
 その頃の話だが、当時のフォークソングには「何かを探して」とか「何かを求めて」というような言葉がやたらあった。
 たとえばはしだのりひことシューベルツの『風』(詞:北山修)にも「何かを求めて振り返っても、そこにはただ風が吹いているだけ」という歌詞がある。いまはとりあえずこれしか思いつかないけれども、ほかにもいっぱいあったように思う。
 とりあえず「何かを探して」と言っておけば時代の気分に合ったのだろうが、この「何か」とは何だったのだろう――というのが、ずっと気になっていたことだった。
 時代は60年代末から70年代はじめ。学生紛争が起き、70年安保をはさんだ70年またぎの時期。いわゆる団塊世代がその中心にいたわけだが、その団塊世代はその後「何か」を見つけたのだろうか。見つけたとしたら、その「何か」とは何だったのだろう――と、そのあとの「後団塊世代」であるぼくは考えるのだ。

△修鵑覆海箸鮃佑┐討い燭蕁▲謄譽咾覗蠹弔澆弔鬚寮犬泙譴芯が、町興しとして町中に相田みつをの書を掲げている……というようなニュースを見た(ながら見なのでよくは憶えていないのだけれども)。
 相田みつをと言えば、有名なのは「人間だもの」という言葉だ。
 そうしたら、吉田拓郎の『人間なんて』(詞曲:吉田拓郎)という歌を連想し、そういえば『人間なんて』にも「何かが足りないよー」というような歌詞があったなと思った。
 では、「人間なんて…」という言葉を「人間だもの」に置き換えたらどうなるんだろう、と思い、やってみたら、アラ意外とハマるじゃないの。

人間だもの ララララララララー
人間だもの ララララララララー
人間だもの ララララララララー
人間だもの ララララララララー

何かが欲しい オイラ
それが何だか わからない
だけど 何かが たりないよ
いまの 自分がおかしいよ

空に浮ぶ 雲は
いつかどこかへ 飛んでゆく
そこに 何かが あるだろうか
それは誰にも わからない

人間だもの ララララララララー
人間だもの ララララララララー
人間だもの ララララララララー
人間だもの ララララララララー
人間だもの ララララララララー
人間だもの ララララララララー

きいてよ オイラの話を
何が こうさせたのか
いつの間にやら 今ここで
歌を うたっている オイラ

人間だもの ララララララララー
人間だもの ララララララララー
人間だもの ララララララララー
人間だもの ララララララララー
人間だもの ララララララララー
人間だもの ララララララララー

 でも、「人間なんて」と「人間だもの」の間には“深くて瞑い”河がある。

(21:55)