犬と暮らせば

July 26, 2006

位牌

 

 

 

 

 

 

 主のなき犬小屋につゆの名残り雨  タオ

“犬がいなくなった”という生活にまだ慣れない。
 出かけて用事をすませ、電車から最寄り駅のホームに下りると、「えー、帰ったらしなくちゃならないことは、まず犬の飲み水を替えて……」と考えている自分がいて、そうか、もう考えなくともいいんだと思い直す。
 家で仕事をしていて、屋根に雨が落ちる音が聞こえると、「ああ、雨が振ってきた」と庭の犬小屋に目をやり、そうか、もう気にかけなくてもいいのだと思う。
 愛犬家と呼ばれる人種ではないが、犬がいるから、そうした思考パターンは――19年という年月だもの――いつしか身に付いてしまう。

 クマの遺骸は、府中にあるタツが眠っている「慈恵院」というお寺にお願いした。ここを教えてくれたのはぼくの住む町の市役所だった。犬の登録管轄は役所の保健所なので、タツが死んだときにその処理について問い合わせたら、「市が動物の遺骸を処理するとなると、ゴミ扱いになります。それでよければ引き取りに行きますが、こんなところがありますよ」と教えてくれたのだった。
 それで、クマが死んだ夜、電話をしてみたら留守電ではあるが受け付けてくれ、こちらの住所・氏名・電話番号を伝言したら、さっそく翌朝連絡があり、昼前には遺骸を引き取りに来てくれた。火葬し、共同供養塔に合祀される(という。本当のところはわからない)。これで20000円だ。
 間を置かず、翌々日あたりにはペラペラの紙に死んだ犬の名前を書いたものが届く。
 これで、ザッツ・オール。そして、エンド。

 タツが死んだときに感じたことだが、独り者が犬を飼っていて、死んだときにやりきれないのは“悲しみの共有”というやつができないことだ。それが人ならば、いろんな人たちと出会い、友好を深めるから、多くの人がその“亡くなった人”がどういう人間であったかを知っている。だから、その人が死んだとき、生きていたころを思い出してともに悲しんでくれる。葬儀はそういう場になってくれる。
 ところが、ウチの犬の人生(犬生)の大半は、ぼくしか知らない。もらってきたばかりの頃は、別れた妻だって憶えているだろう。その後の一時期は、タツとクマを可愛がってくれた女友達がいて、その時期のことなら彼女は憶えているだろう。しかし、武蔵野に来てからの長い犬の生活については、ぼくしか知らない。しかも、家族持ちであれば、家族で共有できるのだけれども、ぼくの場合、それができない。

 クマが死んで、悲しいのではない。19歳まで生きたのだから、そのことに悔いはない。ただ、“犬のいない生活”にまだ慣れない。庭に目をやると、主のいない2つの犬小屋があり、手元にはもう誰も引くことのない2本のリードが残っている。



(22:59)

July 16, 2006

クマ

 

 

 

 

 この犬(雑種、♀)は西麻布の生まれだった。
 中野に住む夫婦にもらわれてきたとき、熊の子のようだったから、新しい飼い主に「クマ」と名付けられた。
 クマと名付けられたぐらいだから、毛の色は黒だったのだが、胸からお腹にかけては白く、4本の足にも白い“靴下”を履いていた。

 もらわれてきてみたら、その家にはその年が辰年だったから「タツ」と名付けられた犬(同じく雑種、♀)が自分より3カ月ほど前にもらわれてきていて、そのせいか先輩犬がイタズラでうるさいのに対し、控えめで温和しかった。飼い主の夫婦はタツを姉、クマを妹として扱った。散歩に連れて行かれて、クマが姉より前を歩くことはなかった。

 飼い主の夫は、先にもらわれてきたということからか、どちらかといえばイタズラでやんちゃなタツのほうを可愛がった。それに対して、妻は温和しいクマを可愛がった。
 2匹とも子犬の時を除いて、ある程度大きくなってからはずっと屋外の犬小屋(中野のそれは主人の手作りだった)で飼われたのだが、そんなある日、飼い主のちょっとした隙にクマがリードを外して逃げ出し、車道に飛び出してクルマに轢かれた。飼い主夫婦が、武蔵境にある獣医大の病院に連れて行ったら、医者が「骨盤が割れています」と言い、さらに「レントゲンを撮ったら、肺の中がフィラリアでいっぱいです。このまま生きても、あと3カ月ぐらいでしょう」と告げた。
 夫婦は、「そうか、この子はあと3カ月か」と思い、できるだけやさしくすることを心がけた。
 ところが、死ななかった。
 ばかりか、飼い主夫婦が離婚し、2匹の面倒は夫が見ることになって、中野から引っ越した先の千葉で、クマはどこのバカ犬かわからない(飼い主の不注意だ)子を産んだ。2匹産んだうち、1匹は死産で、飼い主は残った子(♂)にクマの幼名だった「モン」と付けたが、この子はもらわれていった先で「ヨタロー」と改名され、3年ほどで死んだらしい。

 その後、飼い主はさらに武蔵野に移り、タツもクマもさらに生きた。タツが死んだのは4年前、残暑が厳しい8月の終わりで、その2週間ほど前に突然目が見えなくなり、散歩に出ても壁などにぶつかるから、飼い主が近くでその地に住んで以来のかかりつけ医(といっても、2匹とも雑種のせいかほとんど医者の世話になることはなかったのだが)から、「てんかんによる脳出血」と診断され、「しばらく様子を見ましょう」と言われて様子を見ているうちに、ある朝死んでいた。14歳とちょっとだった。

 その晩、飼い主はタツをバスタオルにくるみ、本を入れていた段ボールの箱を空けて亡骸を収めて部屋に上げ、独り通夜をした。すると、クマが部屋に上がりたがるので、上げたらタツの入った箱の側に寝そべって動こうとしない。ああ、お姉ちゃんが死んだのがわかるのか、と、飼い主はその姿にあらためて涙を流した。
 やがて、クマは箱の中に首を突っ込んだ。タツの匂いを嗅いでいるのかと思ったら、冥土のみやげに入れたジャーキーを食べていた(笑)。

 ところが、その日を境にクマが変わった。散歩に連れて行こうとすると、飛び出すように駆け出す。その前に必ず一度タツの小屋を覗くので、タツがどこに行ってしまったのか探しに駆け出してることがわかるのだ。
 やがて、タツがいないことを認識するようになると、それまでなかったことだが、飼い主に甘えるようになった。甘えた鳴き声を上げるのだ。お腹が空いたといっては鳴き、庭の立木にリードが引っかかったといえば鳴く。そんなことはそれまでなかったことだった。 と同時に、ボケ始めた。目も緑内障で見えなくなり始めた。
 クルマに轢かれた後遺症が、今頃出てきたのかどうかはわからないが、右後ろ脚が麻痺しているようで踏ん張りがきかず、最初は散歩していると時おりヘタッと座り込んだりしていたのが、やがてトボトボとしか歩けなくなった。
 しようがないよな。何せもう19歳(年齢を間違っていたことは前に書いた)だもの、と飼い主も覚悟した。そして、あとどれぐらい生きるのだろうと思った。以前は2泊を超える出張だと、かかりつけの動物病院に預けていたのだけれども(それでも迎えに行くとストレスでヘロヘロになっていた。それはそうだ。動物病院には猫のほかさまざまな動物が“入院”しているのだから)、それも犬のことを思うと可哀想だったので、飼い主は2泊を超える仕事は断っていた。

 そして今日、飼い主がさっき大阪への1泊の仕事で帰ってきたら、クマが死んでいた。
 犬小屋と家の隙間にからだを潜めて硬直していた。
 今日もクソ暑かったから、身を身を潜めていたのだと思ったが、友人に電話をしたら、今日の東京は雷がひどかったのだという。クマは雷をすごく恐れる犬だった。タツは何とか我慢して犬小屋にいるのに、クマはこのときばかりは騒ぎ立て、数年前だが、南向きの居間のでかい網戸を食い破ってしまったことがあった。
 飼い主がいれば、なだめすかしたりしながら何とかしてきたのだが、この日は猛暑に加え、ひどい雷の怖さもあって、ついに力が尽きたのか……。

 クマはいま、飼い主であるぼくの横にいる。タツと同じように、ぼくが使ってきたバスタオルに包み、本を入れていたのを急遽空けた段ボールの箱の中で眠っている。タツの時は、ぼくとクマで見送ったが、今回はぼくだけなのがつらい。
 しかし、19年間の犬との生活は大変だったけれども、いま思い出されるのは楽しいことばかりだ。

 クマよ、タツよ。
 ぼくのような面倒見の悪いやつに巡り会って迷惑だったかもしれないけれども、ぼくはお前たちがいたから何とか今日まで生き延びることができた(それは多くのぼくの友人が指摘することだ)。そのことは、心から感謝しているよ。


 クマよ。ずっと昔、「余命3カ月」といった武蔵境の獣医大のヘボ医者を笑ってやろう。
 お前は、事故に遭いながらも、子供も産み、しかもこんなに長生きしたんだものね。
 ぼくは寂しいけど、お前は寂しくないはずさ。ずっと一緒に育ち、生きて、先に逝ったタツが待っているし(タツが眠っている同じお寺にお願いするよ)、お前の子のヨタローも向こうにいるからね。ヨタローが生まれたとき、お前が母として面倒を見、遊んでやっていた姿は、いまも憶えているよ。
 箱の中のお前は、本当にぐっすり眠っているように見える。
 19年の人生、いや犬生に疲れたんだね。
 ゆっくりお休み。

 ありがとう。



(06:05)

June 06, 2006

クマの子モン “靴下”を穿いているところは母犬そっくりだ。

 

 

 

 

 

クマの子どもモン。“靴下”を穿いているところなどはそっくりだ。

 T・Sエリオットの詩の一節に、
 The Naming of Cats is a difficult matter,
 というのがあるそうな。
“あるそうな”というのは人から教えてもらったからで、誰かというとイタミ先生である。それがいつのことだったかちょっと調べてみたら、何とぼくがハタチのときのことで、われながらよく記憶に残っていることだと感心してしまう。

 で、そのイタミ先生は続けてこうおっしゃっている。
伊丹十三『ふたたび女たちよ!』《……いかにも、たしかに猫に名前をつけることは大変に難しい。ただし、世の中には、この難しさを、知っている人と知らない人と二種類あるらしく、知らないほうの人人は、ただただ可愛らしく、甘ったるい名前をつけて能事足れりとなしているように見うけられる。つまり……女学生時代から一向に知能の成熟しない女(そうでない女がいるかどうかということは、この際ぜんぜん別問題として)そういう女に名付けられたとしか思えない名前の一群である。
 …大切なのはプリンシプルを持つことでしょう。…私の例でいうなら、私は自分の猫に日本語の名前しかつけない。なぜなら、私の猫は、当然名字が伊丹になるわけでしょう。西洋の名前をつけて、例えばジャッキー伊丹というようなことになると、これはどう考えてもバンド・マスターの名前であって、猫の名前ではなくなってしまう。》(伊丹十三『再び女たちよ』

 イタミ先生には、10代の終わりから20代の始めにかけて、実にいろいろなことを教えてもらった(もちろん著書からね)のだが、そのことはまた別の機会にゆずって、ぼくの場合は「犬の名前」だ。いや、別にエリオットのごとく「犬の名前は難しい」と思ったことはないけれど、命名のときにはたぶんイタミ先生の先の一文が意識のどこかにあったことはたしかだと思う。

 前にも書いたが、わが家には2匹の犬がいて、5年近く前に14歳半で死んだのが「タツ」、同い年でいまもボケながらしぶとく生き残っているのが「クマ」。どちらも♀犬で、その命名はというと、「タツ」は辰年生まれだったから、「クマ」は子犬のときに見た目が子グマみたいだったから……という簡単な理由からだ。しかし、われながらいい名前だと思う。というのも、イタミ先生が言うように、名字がぼくと同じならば、「○○タツ」「○○クマ」であるわけで、いまはともかく戦前だったらいそうな名前じゃないの。タツばあさんとか、おクマさんとかさ。そういえば「おとらさん」というマンガがあって、そのおとらばあさんを柳家金語楼がやった映画を観た記憶があるな……。

 タツは生まれてほったらかしにされていたのをもらってきたので、うちにきたときは無名だった。ところが、クマはもらいに行ったとき、すでに飼い主によって「モン」という名前がつけられていた。全体的には黒い毛に覆われているけれども、背中の首のつけ根あたり、首輪をすればそのすぐ下あたりにひとつまみほどの白い毛が生えていて、それが紋付きの背の紋章みたいだから、というのが命名の理由だということだった。
 だから、「モン」でもよかったのだが、わが家にきたらやっぱりこっちでつけたいと思うじゃないの。それで「クマ」と勝手に改名したのだが、因果はめぐるというか……。

 タツとクマがわが家族となって3年ほど経って、千葉は東西線沿線のある町へ引っ越した。引っ越した翌年の夏はひどくクソ暑かったのだが、クマだけは痩せもせず、というより、なぜかコロコロ肥っている……と思っていたら、ある朝、犬小屋を覗いて引っ繰り返った。子犬が生まれているじゃないの。一軒家ではなく、門などない住宅だったということもあるけれども、このあたりの犬を飼っている連中の文化程度が低く、夜、犬を放し飼いにしているバカどもがいるのだ。そうしたバカどもに飼われて放された、去勢もされていない犬(こっちも不妊手術をしていなかったからおあいこだと言われればそれまでだが、放し飼いにしているという点で、絶対に敵が悪いと思う)が、ぼくがいない間に落花狼藉におよび、子ができてしまったのだ。「妊娠に気がつかないなんて…」と人から笑われたが、犬をちゃんと飼うのはほとんど初めてに等しいから、わかんないよ、そんなこと。

 それで、その後、タツ・クマともに不妊手術を受けさせたのだけれども(その手術・入院のせいで2匹ともすっかり病院嫌いになってしまった)、それはともかく、クマが生んだのは2匹で、うち1匹は死産だった。生き残ったのは♂犬だったが、不思議なことに、父犬がどんなバカかは知らないが、この子犬もクマと同じくほとんど黒で、しかも同じように、背中に「紋」を背負っている。そこで、この子にはいわばクマの幼名である「モン」という名前をつけた。
 
 この子は元気がよかった。タツとクマと、そしてモンを散歩に連れて行くと、モンはクマにもタツにもじゃれかかる。クマは親だから(生んだらいきなり母になり、母の行動をとるという動物の習性も初めて体験した)相手をするけれども、タツ“おばさん”はある日いきなり現れた存在に、「こいつはいったい何なのよ」というとまどいを隠せない。だから、モンが近寄ってくると、脅えて吠える。すると、モンはそれに負けずに吠え返す――となかなか面白かったのだけれども、面白がってばかりはいられない。
 2匹飼っているだけでも大変なのだもの。この子犬をどうするか……。

 母犬自体が素性の知れない雑種であり、しかも父犬がどこのバカ犬だかわからない、そんな不憫な子犬をもらってくれようなんて慈悲深い人は、そうそういない。当時仕事をしていた会社の掲示板に、目一杯可愛く撮ったポラロイド写真を掲示してもらい手を募集したけれども、同僚は「可愛いね」というだけで、ちっともいい返事がない。えーっ? おれ、3匹も飼わなければいけないの? と、ほぼ観念しかかったとき、写真を見て、「可愛いですね。姉に聞いてみてもいいですよ」と言ってくれた人が1人だけいた。
 日本を代表する――と言っていいと思うが、バーテンダーの毛利隆雄さんだった。いまは銀座・電通通りで『毛利バー』を開いているが、当時はぼくが仕事をしていたオフィスが入っていた霞ヶ関ビルの、すぐ裏手のビルの地階にある『ガスライト』というバーのチーフで、その頃、酒の雑誌の仕事もしていたぼくは、カクテルのことのほとんどは、この毛利さんから教えていただいたといってもいい(最近は金がないから、なかなか毛利バーへは行けないのだけれども)。

 毛利さんのお姉さんは犬が好きで何匹が飼っているから、ということだったが、ありがたいことにもらってもらえることになり、毛利さんはぼくと同じ沿線に住んでいたので、電車で連れて行って渡すことにした。
 その日は、女友達がきてくれ、モンの体を洗ったあと、彼女が母犬のクマを散歩につれてゆき、その間にぼくがモンを持っていくという段取りにした。犬用のバスケットなど持っていないから、大きめのバッグにバスタオルを敷き、モンを入れ、首だけは出るように少しファスナーに隙間をつくって東西線に乗り込んだ。
 すると、ふだんは元気よく、うるさいほどのモンが吠えもせず鳴き声も上げず、温和しい。ファスナーの隙間から顔を出し、ぼくをじっと見つめたりしている。まるで、「これからぼくは、どこかにもらわれていくんですね」とわかっているような顔をして。だから、3つ4つ東京よりの駅で降り、バッグごと毛利さんに渡したときには、胸がいっぱいになってしまった。
 クマはといえば、散歩から帰ってきて、わが子がいないものだから、犬小屋のまわりを探し回り、三晩ほど悲しい鳴き声を上げていた。

 それからしばらくして、『ガスライト』に飲みに行った。毛利さんの手が空いた頃を見計らい、「犬はどうですか?」と聞くと、
「元気らしいですよ。外に繋いでいるのに、気がつくと家の中に上がってきているそうで」 と毛利さんは笑った。モンらしいと思った。うちでもそうだったのだ。
「何と呼ばれているんですか?」
 モンという名前の意味は、渡すとき伝えてあった。
「それが、姉の子どもが、こんど犬を飼うなら絶対こういう名前で、というのがあったのだそうで…」
“因果はめぐる”というのは、そういうことで、ぼくだってモンをクマに変えたのだもの。その子のモンが名前を変えられることは仕方がないじゃない。しかも、“絶対にこういう名前で”というのなら、きっとモン以上の名前に違いない。
「……ヨタローというんです」

 そのモン改めヨタローは――もちろんそれからずっと後に聞いたことだけれど――毛利さんによれば、3年ぐらいで死んだらしい。



(05:29)

April 03, 2006

最寄り駅近くの自転車道


 

 わが借家の近く、そう“元気な犬”の足でぶらぶら歩いて10〜15分ぐらいのところを多摩湖自転車道という自転車プラス遊歩道が通っている。五日市街道と井の頭通りの交差点を起点に、多摩湖まで続いているのだそうだが、ぼく自身は田無駅と小平駅の間しか走ったことがないので、全容は知らない。
 この自転車道の、ちょうどぼくが住んでいるあたりは、この時期、道の両側に桜が咲き誇る。そのことを知ったのは、この町に引っ越してきたのが秋の終わりだったから、翌年の春のことだった。
 これはうれしかった。ぼくの日常生活には「犬の散歩」というプログラムがあるのだけれども、それまで住んでいた千葉の東西線沿線の町は緑が少なく、どちらかといえば殺伐としたところで、散歩していてちっとも気持ちのいいところではなかった。それに比べれば緑はたっぷりだし(わが家のまわりには畑も多い)、しかも自転車・人・犬がゆける遊歩道があって、春には桜まで咲くのだもの。

 犬を飼う者にとって、散歩は義務である。ましてや、わが家の犬は外犬として飼ってきた(つまり、1日の大半は繋がれている)からなおさらで、わが犬どもを見ていると、その生きている喜びは、めしのほかは散歩しかないのではないかと思うほどだ。

 だから散歩に行った。理想は1日1回である。“理想は”と断っているのは、雨だの吹雪だの、夜遅くまで帰ってこなかっただの、風邪で熱があってフラフラするだの、ひどい二日酔いだの……等々、なかなかそうもいかなかったりするからで、だから「1日1回」はぼくの努力目標だ。時間は、許されれば――つまり、どこかに出かける用がなく、その時間に家にいることができたら、夕方がいい。朝がいいという人もいるかもしれないが、ぼくの場合、おおむね朝は死んでいるからで、夕方の陽が傾きかけた頃に出かけ、小一時間ほど歩いて――コンビニでタバコや週刊誌などを購おうと思えば、途中立ち寄って、店のまわりのどこかに犬を繋いで用事をすませたりして――陽が落ちる頃に帰ってくるのがいい。ときおり朝に散歩、ということもないではないけれども、それは徹夜明けのまま、気が向いたときだ。

 武蔵野で〜、一軒家に住んで〜、犬を飼って〜
 と言ったら、「あら、うらやましい」と言った女性がいたけれど、そんなうらやましがられるような話ではない。最初にごくごく小さな一軒家で外犬として飼い始めたので、独り暮らしになってからも外に犬小屋が、しかも2匹いたから2つ置けるところに住まなければならず、そうなると一軒家かそれに近いものにせざるを得ないじゃないの。
 でもって、犬の散歩というのは、犬が主体であって、飼い主はお供であり、その主な役割はうんこの始末である。「出物腫れ物ところ嫌わず」というが、お犬様たちはとにかくTPOなどお構いなし。もようしたら急に立ち止まって、前脚は突っ張り、腰を屈めつつ後ろ脚で踏ん張ると、やがてモリモリと脱糞される。だからぼくの場合、お供としての必携品は新聞紙をいくつかのピースに裂いたものと、コンビニでもらう小ぶりのレジ袋で、お犬様が脱糞されるたび、そのまだ温かい排泄物を新聞紙で取り、レジ袋に落とし入れて始末しなければならない(このうんこ取りのコツは、うんこをつかむ手に力を入れず、軽く取り上げることだ。力を入れると、まだなま温かいのがニチャッと潰れて、その感触がとても気持ち悪い。しかし、これは、うんこを取り続けているうちに上手くなる)。
 いま生き残っているクマは、信号機のある横断歩道を渡っているときに、そのど真ん中でいきなり立ち止まって踏ん張り、垂れるのが得意で、信号は赤に変わりそうだわ、うんこは拾わなければだわで、何度冷や汗をかいたことか。
 しかも2匹である。そのうえ「1度の散歩あたりうんこ1回ね」なんて約束なんかできないから、1度の散歩の途中で2回、多ければ3回ということもあって、何度「お前らなー、いーかげんにせーよー」とののしりのことばをつぶやいただろうか。もうレジ袋は2匹のうんこでずっしりなのだ。

 であるから、散歩させる者にとっては、少しでもその労苦が癒されるような、歩いていて心地よい散歩道がありがたいわけで、この多摩湖自転車道は、その意味でうれしかった。
 わが家から犬2匹を連れて、10〜15分ほどかけてこの道までやってくる(だいたいその間に2匹とも1回目のうんこをしている)。
 桜の時期なら道の両側に桜が咲き誇り、休日であれば道の脇にある小さな公園で、いくつもの家族連れが花見の宴を開いている風景を目にする。ぼくはそれを横目で見ながら、うんこ袋を下げて通り過ぎるだけだけど……。その時期を少し過ぎれば、散りゆく花弁を風が吹き流すから、桜吹雪の中を歩くことになる。

 夏は木々の葉が生い茂るので、道は日陰となって涼しい。公園の、自転車道に近いところに公衆トイレがあり、そのすぐ外に水道があって、この水道はわが家の犬たちが夏の散歩の途中、蛇口に口を近づけてごくごく水を飲み、渇きを癒す給水場所でもあった。
 秋は樹木の葉が色づき落ち始めて、人様にとってはメランコリな季節だが、犬たちにとってはくそ暑い夏が過ぎて元気なときだ。公園の端にはベンチがいくつか置いてあり、ぼくはときおりそのひとつに犬たちを誘って、タバコを1本吸って休憩したりした。
 冬は寒いのであまり行かないけれども、それでも少し暖かったりすれば、この道まで散歩に行った。新聞紙とうんこ袋を持って(くどいぞ)。

 犬――雑種の中型犬――を2匹散歩させるというのは、けっこう大変だ。2匹はそれぞれ勝手に歩くし、若いうちには力もそれなりに強いので、リードを持つ側も力がいる。千葉でのことだったが、一度、「私に散歩させて」と志願した女友達が、引き倒されて腕に擦り傷をつくって帰ってきたことがあったほどだ。
 しかし、4年半ほど前に体格的に大きかったほうのタツが死に、クマだけを連れて散歩したときに感じたのは、リードの何とも手応えのなさだった。2匹を連れて散歩させて14年半感じていた「ああ、大変」という手応えがいきなりなくなった、この空虚感は、そのままタツがいなくなった空虚感だった。
 そしていま、残ったクマも年老いて(何と言っても19歳なのだ)後ろ右脚が踏ん張れず、去年の春過ぎあたりから長距離を歩くことができなくなってしまったので、今年はまだ桜並木を歩いてはいない。

 散歩はお犬様のためだとずっと思ってきたのだが、かつてのようなそれができなくなってしまって、“犬と暮らす”ことの意味を思い知らされた。犬たちがうれしそうに歩く、その姿を目にしながら犬に合わせてぶらぶら歩くことは、じつはぼくにとっても大事な時間だったことを。



(01:05)

March 20, 2006

左:タツ 右:クマ

 

 

 

 

 

 わが家には1匹の老犬がいる。名をクマという。
 貰ってきたとき小グマのような風貌であったから名付けた雑種の牝だ。
 今年は戌年だから、メールでの新年の挨拶文に犬の写真を貼付し、「この春で18歳になります」と書いた。長生きはめでたいことだものね。
 ところがとんでもない間違いをしていたことが、つい最近わかった。

 ずっと平成元年(昭和64年、1989)の生まれだと思い、いま住んでいる町の保健所にもそう届けてあるのだが、実は63年の生まれだったのだ。何でそんな間違いをしていたか。ひとつは、たぶん犬の生年などどうでもいいことだと思っていたことだろう。もうひとつは、それがいつだか知らないが生年を平成元年と思いこんで、「犬の年齢は平成の年数と同じだから、勘定するのが楽」というようなことでやってきたためだろう。いい加減な飼い主です。

 なぜこの間違いに気づいたかというと、4年半ほど前までもう1匹犬がいて、名前をタツといった。これも牝だったが、その命名の理由は生まれてわが家にやってきた年が辰年だったからだ。クマはタツがやってきた3カ月後ぐらいに貰われてきた(タツといいクマといい命名もいい加減である)。
 で、何からの連想なのか憶えていないが、ふと「本当に平成元年は辰年だったか?」という微かな疑問が頭をよぎり、こんな微かな疑問は思いついたときに解決しなければ、最近はぼくも年のせいか「何を疑問に思ったんだっけ?」とすぐに忘れてしまうから、インターネットでちょっと調べたら平成元年は巳年だったのだ。
 ということは、タツは13歳半で死んだのではなく、14歳半まで生きたのであり、いま庭の犬小屋にいて、もはや老いのせいで目もよく見えず、後ろ足が踏ん張りづらくなってヨタヨタとしか歩けず、ボケも入ってきているクマは今年19歳ということになる。われながら、よく19年も犬と暮らしてきたものだと思う。しかも、今日に至るその年月の大部分は独り暮らしなのだ。いつの正月だったか、こんな句を賀状に書いたことがあった。

「初春や 男一匹 犬2匹」

 その独り者が2匹も犬を飼っている(た)ものだから、「よほど犬が好きなんですね」とよく人から言われる。中には、ぼくのことを変わり者だと思っている人もいたかもしれない。たしかにぼくは犬好きだが、そう言う人にはこう答えてきた。
「離婚の置きみやげなんだよねえ」

 19年前、暮らしをともにしていた配偶者の勤めていたDCブランド系の雑貨メーカーが、倉庫で犬を飼っていた。散歩は社員の回り持ちで、ぼくも一度彼女のお供で付き合ったことがあるが、そいつがその年の春、寒くて雪が降った日に1匹だけ子犬を産んだ。それを彼女がぼくに相談もなく貰ってきたことがそもそもだった。
 そのとき住んでいたのが、N区の住宅密集地域にあったごくごく小さい2階建ての一軒家で、家のまわりはブロック塀で囲ってあり、アルミ製の門扉があって、玄関から門扉まで少しだけスペースがあった。
「ここに犬小屋を置けるよね」なんて話をしたかどうかももう憶えていないのだが、ある日2階でうたた寝していたら、鼻先がひやっとし、その感触で目覚めると、目の前に薄いベージュ色の毛で不機嫌そうな表情の子犬の顔があった。冷たい感触は、その子犬の鼻がぼくの鼻に押しつけられたからで、押しつけたのはもちろん配偶者で、これが「タツ」だ。
 その3カ月ほど後のこと、「同僚が会社の近くで子犬を見つけたんだけど、タツも1匹だけじゃ、私たちのいない昼間、さびしいと思うのよね」と、またしても配偶者が貰ってきたのが「クマ」だ。ちなみにタツは六本木生まれ、クマは西麻布生まれで、どちらも雑種のくせに生まれた場所だけはオシャレである。
 犬は好きだから、飼うことに反対ではなかった。1匹が2匹になっても、さほど変わらないと思っていた。当たり前だが、その段階で離婚は想定外だよね。ただ、犬の寿命は10年ぐらいだと聞いていたから、これから先の10年という時の長さを覚悟した。

 で、その後いろいろあって離縁するときに、彼女は「私はマンションに住むから、犬は飼えないのよ」と自分だけとっとと出ていったのだ。自分で貰ってきておきながら、勝手なやつである。だからといって、いったん飼ってしまったのだから、捨てるわけにはいかないじゃない。
 以来、半分意地のようにして飼い続けてきただけなのだけれども……。

 10年の覚悟が、まさか19年とはねえ。

※写真は元気な頃のタツとクマ



(00:03)

April 24, 2005

 ぼくの名刺の肩書きは、「エディター」となっている。

 もうずいぶん以前のことだが、飛行機に乗ると前の席の背の網ポケットに突っ込んであるいわゆる機内誌の仕事で広島に行き、当地の観光協会の人と名刺交換した。「広島」特集であったので、いろいろ教えを請うたり便宜を図ってもらうためだ。
 その相手がぼくの名刺を見て言った。
「このエディターいうんは、どういうお仕事ですか? 最近はカタカナの肩書きが多くて、自分らようわからんのです」
 その人の名刺には「観光プロデューサー」とあった。

 ……えー、そういう話をするつもりではありませんでした。
 ぼくの肩書きは「エディター」の前に“フリーの”という枕詞がつく。アンケートなどで職種を問われると、仕方がなく“自由業”というところにマルをつけたりするが、自由業とは気ままなようで聞こえがいいけれど、いわば潜在失業者だと言っていい。タクシーのように街を流していれば、誰かが手を挙げて仕事を依頼してくれるというようなものではなく、編集者などからお声がかかってお仕事がいただけるか、かからなければ自分で企画などを売り込みに行き、それが仕事として成り立って(この場合、成り立つかどうかが、まず大問題である)、かつその仕事をやりのけて、ようやくいくばくかのお金をいただくことができる。

 ……えー、そういう話をするつもりもありませんでした。
 ともあれ、そうした肩書きでここ7〜8年ほどは自宅で仕事をしている。とくに、ここ2〜3年は仕事が変わってきたこともあって、自宅にいることが多い。
 そのせいなのか、今日が何月何日で、ということがわからなかったりする。テレビ番組を見て、「あれ? 昨日見たんじゃなかったっけ」と思うことがよくある。つまり、もう1週間経っているのに、その感覚がないのです。
 過去の記憶も怪しくなってきた。つい、この間のことだと思っていたことが、半年ぐらい前だったりする。

 そのひとつが以下の話で、ぼくは2月頃のことだと思っていたのだが、ヘルプしてくれたAさんにあらためて確かめたら、「去年だよ。秋じゃない?」というから、もう半年ぐらい前の話だ。

 その日の夜、新宿で人と会う約束があり、ならばその前に犬の散歩をすませておこうと、庭に降りてつないでいるリードを外し、散歩用のそれに付け替えようとした、その“アッ”という間の隙をついて、犬が猛ダッシュしたのがそもそもそだった。
 雨だったか、こっちの都合だったかはもう憶えていないけれども、2日ばかり散歩に連れて行けなくて、犬にしてみれば、「オッ、やっと行けるぞ」という興奮気分もあったのだろうね、当人(というか当犬)はリードが付け替えられたつもりであったのか、ともあれ飛び出すように走り出したのだが、もはや夜のとばりがとっぷりと降り、しかもわが家のまわりは街灯も少なくて、暗く、畑が多い。かつ犬の毛は黒で、夜の闇の畑に紛れ込んだら、これはもう見つけようがない。

 30分ほどは探し回ったのだけれど見つからないし、約束の時間は迫るしで、「いいや。犬のことだから、どうせ少し遊んだら帰ってくるだろう」(そういうことがいままで何度かあったから)と思い、新宿まで出かけ、人と会い、酒を飲んで、ぼくが家に帰ってきたのは夜中の1時半。ところが犬はいない。
 では、朝になったら帰るであろうと寝てしまい、朝10時頃だったけれども、犬小屋を見ると、やっぱり帰っていない。

 さあ、すっかりMissing Dog(どこかへ行っちゃってわからない犬)だ。
 こうした場合、あなたならどうするか? というのが本日のお題なのです。

 ぼくは、やや二日酔い気味の頭で、帰ってこない理由について、3つの可能性を考えた。
(欸鮟蠅吠甞佑気譴
▲ルマに轢かれた
ボケがあるので帰れない

 に関してはあきらめた。どうしようもないもの。
 △蓮動物の遺体の処理については付近の住民からの通報などで回収してくれるだろうから、市役所のゴミ収集係などというところに何らかの記録が残っているかもしれない、と思った。
 そこで、まず△硫椎柔も含めて、市の保健所に電話してみたところ……。

「いま、犬の捕獲・保護を行っているのは保健所ではなくて、東京都は東京都福祉保険局管轄の『動物愛護相談センター』の担当になっていて、お宅様のお住まいで行けば、担当支所は日野ではないですか? ちなみに『ゴミ収集係』とか『ゴミ収集課』というのはなくて、いまは『リサイクル課』になっています」
 死んだ犬をどうリサイクルしてくれるというのだろう?

 というわけで、日野の東京都動物愛護相談センター、正しくは、「東京都動物愛護相談センター 多摩東支所」に電話してみたら……ビンゴ! それも電話で確認できてしまった。特徴を言ったら、
「ああ、お預かりしている犬だと思いますよ。首輪が迷彩のやつですね」
 迷彩? と一瞬考えたが、犬の首輪は合成樹脂製のグリーンで、ずっと使っているから色落ちと汚れで迷彩色に見えるのかもしれない。
「昨夜のいまですから、まだアップされていないかもしれませんが、ホームページに写真も出るので、そっちでも確認できます」
 たしかに、いまだ写真は出ていなかったが、特徴等からわが家の犬に違いないと思われた。しかも、ダッシュから2時間後に、わが家から100メートルも行かないところで捕まっていた。あと1時間もしたら、家に戻ってきていたかもしれないのに――。

 引き取りには、鑑札をもってこい。それに預かり賃等がかかるという。鑑札なんて、もう10年以上前に取ったものだから、どこへ行ったかわからない。そういうと、「役所で飼い主と犬の名前を言って再発行してもらえ」という。
 それより困ったのは、引き取り方法だ。というのも、ぼくは運転しない(できない)からクルマがない。まさか、日野まで行ってボケが入っている老犬と一緒に歩いて帰るわけにもいかない。
 そこで、平日の昼間で、クルマを持っていて、ヘルプしてくれそうな人――ということで、前述のAさんに電話したわけだ。Aさんは新宿の、ぼくの行きつけのバーのマスターで、アウトドアが好きだから、4WDを持っている。

センターのHPにアップされていた愛犬の写真 Aさんに犬の運搬のお願いを取り付け、日野のセンターには鑑札の再取得その他時間が必要だから、もう1泊の保護をお願いし、翌日、何とか無事連れて帰ることができた。費用としては、鑑札の再発行代、2泊のお泊まり賃を含めて8000円あまりかかったか。
  で、連れて帰る前の日の夕方に、ホームページにアップされていたのが、この写真だ。年を取っているせいもあるし、脅えてもいるのだろう。何やら古雑巾のようである。

 

 犬・猫がいなくなった人は、まず以下のページを見られたらよろしい。保護されているかもしれませんし、保護動物の検索もできます。

http://www.fukushihoken.metro.tokyo.jp/douso/index.html

 引き取りに行ったとき、老夫婦が何やら相談にきていた。聞くともなしに聞いていたら、2人とも高齢でもはや犬の世話ができぬので何とかしてほしい、ということのようだった。「何とかして」というのは、引き取って処分を、という意味である。
 ここは、そういう悲しい相談にも応じているのだ。



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