偏屈MUSIC録

October 27, 2009

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 昨日の夜、ぼくが関わっている非営利団体主催のイベントを終え、スタッフたちとちょっと飲んで食べて、家に帰り着いたのは12時を回っていた。
 テレビをつけたら、NHKで加藤和彦の追悼番組をやっていて、少し酔った眼で見ていたら、何だか泣けてきた。
 このご時世だもの、誰ががんで逝こうが自殺で死のうが驚くものではない。
 キヨシローのがん死もそうだが、今度の加藤和彦の自殺もそうで、外題を「悲しくてやりきれない」としたのは、単に彼の曲から取っただけだ。
 では、何で泣けてきたのか。たぶん、彼に影響され、ぼくもフォーク少年たらんとして励んでいた10代の終わりから20代初め頃に気持ちが戻り、酔っていたせいと微熱(イベント終了後、急に寒気が襲ってきた)もあってセンチメンタルになったからだと思う。その時期、加藤和彦はぼくの音楽アイドルの1人であり、何を隠そうファンクラブに入っていたこともある(笑)。

 バイトで貯めた金で安いガットギターを手に入れ、かき鳴らしはじめたのは高校1年のときだったが、そこに突如出てきたのがフォーク・クルセダーズだった。
 最初はもちろん『帰って来たヨッパライ』(1967年)だが、面白くは聴いたものの、レコードを買うまでには至っていない。このテープ早回しというのか、音声のスピードを変えるというのは、例えばザ・ダーツ『ケメ子の唄』などにも使われて、手法としてそこそこブームになった。
 この『ヨッパライ』が大ヒットし、歌っていたフォーク・クルセダーズという京都の学生フォークバンドがプロデビューするとして用意されたのが『イムジン河』だと喧伝されたけれども、たぶんぼくは一度も聴かないまま発売中止となった。しかし、発売中止という事態は少年(ぼくです)の心をいたく刺激し、代わりに出た『悲しくてやりきれない』(詞はサトウハチロー)を買い、ポータブル・レコードプレイヤーで聴いたら、何とも切ない詞とメロディーが心にしみた。
 ちなみに、『イムジン河』はその後、早稲田大のシュリークスというバンドが“オリジナルのメロディ”で『リムジン河』というレコードを出している。このシュリークスにはのちイルカが参加、リーダーと結婚した。

 そして出たのがアルバム『紀元貮阡年』(東芝 1968年)だ。いま聴くとどうかはわからないが、ショックだった。松任谷由実だって、加藤の「オーブル街」に影響を受けたと言っているのだから、ぼくのショックは田舎の少年だったからだけではなかったのだと思う。そしてフォーク・クルセダーズ、略称フォークルは1年ほどで、ライブ版2枚を残し解散するのだけれども、これもきわめて刺激的だった。このライブ版の彼らの歌で、例えばジャックス(「からっぽの世界」)という先鋭的なバンドの存在を知った人も多いと思う。あるいは、演奏にシタールを入れたりしていて(演奏はたぶん西岡たかしだったと思う)、田舎の少年はこれでシタールという楽器を知った。

 加藤和彦は、歌に関してはちっともうまくなく、ソロになってからも自作の曲なのに音程が取れていないものもあったほどだ。
だからぼくが惹かれたのは、その音楽世界だったと思う。


 それまでフォークといえば、東京のカレッジフォークで、その代表が“バ〜ラが咲いた”のマイク真木や“日本のジョーン・バエズ”なんて呼ばれた森山良子、黒澤明の息子・黒澤久雄のザ・ブロードサイドフォー(テレビ『若者たち」の主題歌を歌った)などだったが、フォークルが京都だったことから、“関西”に興味が集まる。京都には谷村新司のロックキャンディーズ(桃山学院大学)、杉田二郎のジローズ(立命館)などがいて、明らかに東京フォークとは一線を画していた。ぼくの感想から言えば、歌謡曲&歌謡ポップスぽいのね。
 それはともかく、出は東京(立教大学)だけれども大阪・釜が崎に住んで歌っていたという高石ともや。それに影響受けたと言い、逆に東京・山谷に入り込み、「山谷ブルース」(見事に演歌です)でデビュー、“フォークの神様”ともてはやされて自身苦しむ岡林信康(同志社大)。ヘンなオジサン西岡たかしをリーダーとする五つの赤い風船(拠点は大阪)、先般死んだが『自衛隊に入ろう』で十代でデビューした高田渡などが出てき、またビートニク詩人片桐ユズル(いまやアレクサンダー・テクニークの指導者です)などを巻き込んで、関西フォークの時代をつくる。
 これは東京に飛び火し、新宿フォークゲリラのテーマソングが岡林の『友よ』であったことからもそれがわかる。

 ただ、そうした関西フォークの泥臭い動きに加藤和彦はたぶん関心がなく、フォークル解散後、ソロとして発表したのは『ぼくのオモチャ箱』『明日は晴れるか』というカップリング。前者は当時アメリカのC&Wの世界にニューウェーブもたらして大ヒットしていたグレン・キャンベル(作曲はジム・ウェッブ)の『ウイチタ・ラインマン』にモチーフを得たもの――というか出だしはほとんどパクリ。彼の曲にはこのパクリも多い。『家をつくるなら』は『ミスター・ボージャングル』だし――、後者は当時オーティス・レディングの『ドック・オブ・ザ・ベイ』の大ヒットで日本でも広く受け始めたR&Bのリズムを取り入れたもので、作詞は阿久悠だ。R&Bが日本でどれだけ受けていたかというと、例えば島倉千代子の『愛のさざなみ』(浜口庫之助作曲)はまさに歌謡曲版R&Bだ。ただし、お千代さんの歌いっぷりはちっともそうではないけれども。

 加藤和彦とは一度だけ“共演”したことがある。当時、ニッポン放送に「フォークビレッジ」という番組があり、パーソナリティは吉田拓郎(その前は荒木一郎)で、ディレクターの薦め(というより、ほとんど命令に近かった)でその番組主催のアマチュアコンテストに出たところ、ぼくらのバンドは1次予選を通過(忘れもしない、日本橋三越の屋上で、ゲストが五輪真弓だった)。それを受けて、当時の東京12チャンネルでアナウンサーの土居まさると加藤がやっていた30分番組(番組名は忘れてしまった)に予選通過組がいくつかでることになり、ぼくらもその一つとなったのだ。
 で、ぼくらの拙い演奏のあと、ラストで加藤が歌うという流れで、ぼくらもスタジオの片隅で見ていた。彼はギターの伴奏者とともにジェイムズ・テーラーの『ユウブ・ガッタ・フレンズ』を歌った。それを見ながら、ぼくらは「やっぱり加藤和彦はかっこよかねえ」と思ったものだ。
 その番組のオンエア当日、当時テレビがなかったぼくは、下宿の隣の人の部屋でもう始まるか、もう始まるかと見守っていたのだけれども、なぜかラグビーか何かの試合の中継をやっていて、ついにオンエアされず。次の週にはコンテストの決勝大会の模様が放送されて、当時のバイト先(三田の鰻屋の昼間の出前)にさんざん吹聴していたぼくは、思い切り面目を失った(泣)。

 加藤和彦への関心が薄れていくのは、サディスティック・ミカバンドのあたりからではなかったと思う。ぼくもいまの仕事の世界に入り、そっちが忙しかったこともあるだろう。
 井筒和幸監督の『パッチギ!』は、よい作品だと思うけれども、見ている間中、何か恥ずかしかった。ぼくが加藤に影響受け、フォーク少年たらんとしたあの時代の物語であり、主人公はまさにぼく自身の一部だったからだ。

 フォークルの『イムジン河』があらためてCD化され、買って聴いた。
 生真面目な学生バンドが、生真面目に歌っていた。

(03:29)

April 27, 2006

サキソフォン

 

 

 

 

 

 

 

 きっかけは母校の建学祭

 やりたいなんて、卒業以来一度として思ったこともなかった。まして、またやり始めるなんて想像したこともなかった――。

 そもそもは大学時代の同期の友人に誘われ、卒業以来ほぼ4半世紀ぶりに母校T大の建学祭を覗いたことだった。そうしたら、その日が奇しくも、かつて所属していた「ジャズ研究会」が創立40周年を記念してOB会を結成するという日だった。実を言えば自分が何期生なのかも知らなかったのだが、その結成会に参加して1期生だというかなり年配の先輩方を目にしたら、何か感慨深いものを感じた。それで、仕事はまだまだ忙しいから、何がお手伝いできるかわからないけれど……という程度の気持ちでOB会の名簿に名を連ねた。2年半ほど前の秋のことだ。

 その1年後、OB会で「OBによるビッグバンドを結成しよう」という話が出た。そのときだって、積極的に参加する気持ちはなかった。いま振り返ると、卒業以来一度としてジャズ研のために何かしたことはなかった、という後ろめたさみたいなものからの遠慮もあったけれども、もうひとつは“箱”を開けるのが怖かったからだと思う。何せ卒業以来、一度も触っていないのだ。
 そのOBビッグバンドの練習は年明けから始まった。同期の誰か行っているだろうと思っていたら、「楽器が足りないから、もっと積極的にきてよ」というEメールが入って、それならちょっと行ってみようかと、埃をかぶった“箱”――テナーサックスのケースを開けた。マウスピースを付け、20数年ぶりに息を吹き込んでみた……おお、ちゃんと音が出るじゃないの!

 Dさん(1954年北海道生まれ)が大学入学してすぐにジャズ研究会に入ったのは、腕に覚えがあったからではない。高校まではボクシングや剣道に打ち込む、どちらかといえば体育会系少年だった。だから、大学では文化系の何かをやりたいと思っていた。もうひとつは、体育会系ではあったものの、音楽を聴くのは好きだった。とくに好きだったのは黒人系のソウルミュージックだったが、その一方でロック界ではホーンセクションを従えたBS&Tやシカゴなど、いわゆるブラスロックが台頭してきており、それらを聴いているうちにジャズ、それも大人数でホーンを吹き鳴らすビッグバンドジャズに関心が向いていった。

「それで、学校にジャズ研があるのを知り、楽器はできなかったけれども入ったんです。選んだ楽器はアルトサックス。一番できそうかなと思ったのと、テナー(サックス)より値段が安かったから(笑)。それでもヤマハのやつで15万円しましたね。その後テナーに変わり、テナーで卒業しました」(Dさん。以下同)

 そこからジャズに――というよりサックスにのめり込んだ。何しろ初めて手にする楽器だから、買って3ヵ月は暇さえあると吹いていた。学校近くにいたテナーサックスのプロのところへも習いに7ヵ月通ったほどの打ち込みようだった。
「いま思うと、ああいう熱中の仕方は、若いし学生だからできることですね」
 2年生の時には、大学のビッグバンドジャズクラブがしのぎを削る、Y楽器主催の「ビッグバンドコンテスト」での入賞を目指し、のちプロで活躍するT.K(ドラムス)、S.W(ベース)らのリズムセクションをメインにした楽曲でエントリー、優勝こそ同志社サードバードオーケストラにさらわれたものの、審査員特別賞を受賞する。

 新鮮な音楽の楽しみが

 トリオ、カルテット、クインテット……といった少人数のいわゆるコンボバンドのジャズとビッグバンドジャズの面白さは違う。
「コンボは自己主張の場ですが、ビッグバンドの魅力はまずそのパワーです。サックス5本、トロンボーン、トランペット各4本にギター、ベース、ピアノ、ドラムスのリズムセクションの総勢17人によるパワフルな演奏。そして、それら多彩な楽器が醸し出すアンサンブルも面白い」

 とにかく生活がジャズ漬けだった。卒論のテーマだって『黒人霊歌とニグロスピリチュアルズ』と徹底していた。しかし、就職先として選んだのは「会社員としてもいけるし、独立もできる選択肢がある」ということから、現在所属しているY社だった。同社は居酒屋チェーンの草分けであり、“フランチャイズ”という方式を初めて日本に持ち込んだ企業として知られる。
「当時は第2次オイルショックの後で、日本の経済も変わり始めていたし、わが社もサラリーマン向けの居酒屋から、女性や家族連れをターゲットにしようと方針転換を始めたところでした」
 外食業界だけに現場経験は必要だから、Dさんも焼き鳥を焼く修業もし、店長も数年務めたが、以降は人事畑一本槍でやってきた。

 ジャズは別に意識的に封印したわけではなかった。しかし、音楽とは無関係の世界で仕事を始めると、仕事はもとより、仕事上のつきあいなどで酒やゴルフなどといった雑多なものが否応なしに入り込んできて、それまで生活の一部を大きく占めていた音楽のプライオリティが下がってくる。
「サラリーマンは入社して5年が勝負だと思っていました。実際、何ができるか、何をやりたいかなんてことよりも、現実の仕事をやっていくのに精一杯でしたから、楽器に触ることもなくなったし、そうなると、やがてジャズそのものを聴かなくなってくる……そんな感じで、いつの間にか縁遠くなってしまって」
 それを再び呼び戻したのが、誘われてたまたま足を運んだ母校の建学祭でOB会結成の集いが開かれていたことだった。

 高田馬場のライブハウスで昨年年初から始まっていたOBバンドによる練習には、ちょっと遅れて参加したDさんだったが、
「25年ぶりにやってみたら、気分が爽快なんですよ。現役のときもこんなに気持ちよかったかな、と思うほど気持ちいいんです」

 学生時代はうまくやろうとか、受けなくてはとか、勝たなくてはというような思いが先行する。そうした枷がなくなって、ジャズはいま、もっと自分のところに寄り添い、自分を解放し、演奏している自分自身を大いに楽しませてくれている――これは学生時代には感じたことのない新たな感覚だった。
「中高年のバンドブームだと言われているけれど、それはバンドをやることの何ともいえない楽しい感覚をもう一度味わいたいという思いだけでなく、いまやってみると昔とは違う楽しさがあるからだと思いますね」
 役者は一度板(舞台)を踏むとやめられないというが、音楽も同じだ。大勢の聴衆を前にステージで披瀝する快感は、やった者でないとわからない。「中高年のバンドブーム」とは、昔が懐かしいのではない。あの快感をもう一度味わいたいという、いまの希求がなさしめているものだと思う。

 で、Dさんだが、一度火がついた音楽ゴコロは止めようがなく、何と会社内でも動き出す。日本経済が底の底で暗かった昨年春、社内を活性化する何か新しいムーブメントを起こそうと思い、役員会で「社員バンドの結成」を提案する。これが社長に気に入られ、バンドづくりすることになったのだ。社内メールで募集をかけたら……いるいる。いまでも吹奏楽をやっている連中や、かつてプロのブルースギタリストだったというようなやつまで、いろんな“隠れミュージシャン”が社内に棲息していた。
 そういう連中を集めて、社内バンドを結成した。下は20代、上はDさんの49歳。目標は今年の新入社員歓迎会――だったけれども、お呼びがかかって1月の「全国店長会議」でお披露目をした。そのときの演目はジャズではもちろんなく、〈トップ・オブ・ザ・ワールド〉〈イエスタディ・ワンス・モア〉〈コンドルは飛んでいく〉などのポップスだ。

「でも、そこに音楽をやっている自分がいて、(ジャズではなくとも)楽しんでいるのは確かなんです。音楽がこれほど楽しいことだったとは、同世代で若い頃に楽器をやらなかった連中を不憫に思うほどです(笑)。OBバンドも、このバンドも、年代などバラバラです。スポーツなら若いのと競うのは無理だけど、でも音楽なら世代や年齢は関係ない。社内の場合、仕事の上では上司・部下というような関係になってしまうけれども、音楽の場ではそれがない。そうしたところもとても気に入っています」

 というわけで、今年のY社の新入社員は、Dさんたちのバンドのウェルカム・ミュージックで迎えられるはずだ。そのときの楽曲は、KinKi Kidsの〈フラワー〉とかKiroroの〈ベストフレンズ〉、森山直太朗の〈さくら〉などのはずである。
                                                                              

(2004年2月に書いたものを一部加筆訂正しました)



(00:06)

April 16, 2005

 高田渡が死んだ。
 夕刊を広げたら、写真入りで載っていた。
 
 今月3日、ライブに出向いた先の北海道・釧路で具合が悪くなり、コンサートでは『生活の柄(がら)』――高田渡の1曲ということになれば、やはりこれでしょうね――をはじめ15曲も演ったそうだが、翌朝救急車で運ばれて入院、意識が戻らないまま今日(16日)未明に亡くなったそうだ。死因は髄膜脳炎。一見、とてもそんなに若いとは見えないのだが、まだ56歳だった。
 ピンポイント・ライブでの高田渡
 久々に高田渡のライブを見たのは、綾戸智絵ファンクラブ代表であり、毎日毎日ウェブに「万歩計日和」という日記(リンク参照)を書き綴っている友人・Iさんが主催した「Pinpoint Live」(at下北沢)で、いつのことだったか、サイトにアクセスし、キーワード「高田渡」を打ち込んでバックナンバーで調べてみたら、ついこの間だと思っていたのに、一昨年(03年)9月だった。

“久々”とはどれぐらいぶりかというと、たぶん70年代以来ではなかろうかと思う。
 あの頃は「フォーク」の時代であり、ぼく自身フォーク少年であったから、あちこちのフォーク・コンサートでよく見た……というかナマで聴いた。五つの赤い風船とのカップリングで発売されたデビューアルバム(両者ともライブである)を持っていた。加川良・岩井宏とのトリオで演るのが好きだった。ジャグバンド・スタイルの武蔵野タンポポ団も楽しかったし、吉祥寺「ぐわらん堂」でのライブにも足を運んだ。その頃から、すでにして老人の趣があった。

 だから、本当はフォーク嫌いらしいIさんから「ウチのライブで高田渡をやろうと思っているんだけど」と聞いたとき、「いいね、やろうよ、やろうよ」と大賛成した。
 ところが、そのライブの日は、ちょっと出遅れたところに、運悪くJR中央線が事故かなにかで止まっており、ぼくが会場に着いたのはひとステージ終わって、休憩に入ったばかり。Pinpoint Liveには美味い酒が用意してあり、高田選手はと見ると、隅のテーブルですでにグイグイ飲っている。
 大丈夫かいな? とちょっと心配したのだが、案の定、2回目のステージではヨレヨレ。歌を歌うより、もはや呂律が怪しい口で喋っている時間が長い。せめて『生活の柄』だけは聞きたいと、Iさんにもうやったかどうかをこっそり訊ねたら、「リハではやったけど、本番はまだ」だと言うから、挙手してリクエストしたら、高田選手は「いいよ。でも、その前に1曲」と別の歌を歌い、それで力つきたのか本日のステージは終わり……って、おいおい、忘れてるじゃないか(笑)。
 ま、若い頃から、楽屋で飲み過ぎて、ステージでゲロしてしまったというような伝説には事欠かない人だったから、らしいっていえばらしいのだけれども。
 
 というわけで、その“久々”のナマ『生活の柄』を聞くことができなかったのが、いまとなっては残念だ。
 合掌。
 
(写真はそのライブ。『万歩計日和』より拝借。撮影:幡野好正)
※「生活の柄」はアルバム『ごあいさつ』(キングレコード)に入っている。


(23:21)

April 11, 2005

「ラジオ」をテーマに何か書けと言われて書いたのが以下の一文だ。
 いま渦中のニッポン放送社長だって、まだディレクターであり、自ら深夜放送のパーソナリティーをやっいてた。若者とラジオというメディアの蜜月時代だった、と言っていい。
 書いていると、あの頃がまざまざとよみがえってきた。そう、好きだったあの娘の面影まで……。

ボクのラヂオ・デイズ
 
帰ってきた フォーク・クルセダーズ『帰って来たヨッパライ』の大ヒットをきっかけに、70年安保や大学闘争という時代状況も相まって、フォークソングが音楽の領域のみならず、社会的なムーブメントになりつつあった。東京の新宿西口広場では毎土曜の夜にフォーク集会が開かれて岡林信康の『友よ』の大合唱が巻き起こり、九州・熊本では一人の高校生(僕のことです)が、自分もフォーク少年たらんと新聞配達で貯めた小遣いで安いガットギターを購い、受験勉強そっちのけで、ちっともきれいな和音になってくれないFコードに四苦八苦していた。そんな時代――。
 
 次々と送り出されてくるフォークの新譜は、まず“若者の解放区”などといわれたニッポン放送『オールナイト・ニッポン』、TBS『パック・イン・ミュージック』、文化放送『セイ!ヤング』などのラジオの深夜番組から流れてきた(その次が『新譜ジャーナル』とか『ガッツ』だとかいう雑誌でしたね)。だからその少年も毎晩、勉強机の端に置いたオンボロなラジオにかじりつくようにして、新しい歌に胸躍らせて……はいなかった。それどころか、ラジオの前で悶えていた。
 
 よく聞こえないんだよね。
 夜中12時過ぎまでは地元の放送局のラジオ番組が電波空間を独占しているから、いずれにしてもその後のことなのだが、明瞭に聞こえてくるのは海をはさんだ半島や中国語の放送で、こっちが聴きたいものは、その隙間から漏れるがごとく、かすかに細々としか入ってこないのだ。
 少年は悶えながらも思案した。どうにかしてもっとよく聞こえるようにならないか? そうだ、アンテナを立てればいいかも知れない! そこでその手のことに器用な学友に相談し(ぼくはその方面がまったくダメなのです)、古いコウモリ傘から布地や骨を外してアンテナ様にし、こいつを軒先に取り付けてアンテナ線でラジオと結んでみた。
 いやあ、この目論見は見事に当たりました。『オールナイト…』だって『パック…』だってよく入るのだ。もちろんモコ・ビーバー・オリーブの『パンチ・パンチ・パンチ』だって。といっても遠くからやってくる電波だから、ときおり気が遠のくようにスーッと音が消えかかったり、また戻ってきたりというのはあったものの、悶えていたことを思えば、聞こえるだけで田舎のフォーク少年は大満足だった。
 
 アンドレ・カンドレというヘンな名前の新人フォーク歌手が歌う『カンドレ・マンドレ』なるヘンな歌を聴いたのも、そのオンボロラジオからだった。案の定、ほとんど人口に膾炙しなかったけれども、彼はのち芸名を本名に戻してから、あれよあれよという間にフォーク界のスターになっていった。
 その本名は、井上陽水というのだった。
 
東海教育研究所 月刊『望星』特集「新・ラジオの魅力」2004年3月号所載


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