July 02, 2008
『朝めしの品格』は基本的にコメ礼賛だけれども、白米については負の歴史もあった。そのことについて触れた部分だが、これもページ数その他の関係で削除した。 話としては面白いんだけどねえ……。
■戦争と脚気
日本人が白米を常食するようになった江戸時代、「江戸患い」なる病が流行する。江戸で蔓延し、それはやはり白米を常食していた京、大坂でも広がっていく。
いわゆる「脚気」だ。脚気とは栄養失調症の1つであり、ビタミンB1欠乏により心不全と末梢神経障害をきたす疾患で、心不全によって下肢がむくみ、神経障害によって下肢の痺れが起きることから脚気と呼ばれた。
その頃の庶民の食事といったら、大量のめしとわずかなおかず――たとえばたくあん数切れといった――である。それが玄米に近いめしであったら、米ぬかに豊富に含まれるビタミンB1が防いでくれたと思われるのだが、白米食で、かつたいした副食を食べなかったために起きた、とされている。わずかにぬか漬け(の“ぬか”成分)がそれを補っていたと言われるけれども、たくあん数切れで足りるものでもなかっただろうと思う。大正時代には白米食のさらなる普及で、脚気は結核と並んで二大国民病ともされた。
これが明治の軍隊で悲劇を生んだ。前に書いたように、政府は兵士1人あたり1日6合の白米を用意した。当時、まだビタミンB1は発見されていない。このために脚気を患う兵士を大量に生み、死亡するものも少なくなかった。
イギリスで医学を学んで帰った海軍軍医・高木兼寛は、イギリスには脚気なんて病気そのものが存在しなかったことから、これはパン(つまりムギ)を食べているからに違いないと食事に注目、栄養障害の一種と考えてとりあえずパンなどムギ食を導入するとともに、洋食的な副食を取り入れて脚気患者を減らす結果を出した。日本の洋食の代表の1つカレーライスの普及に一役買ったのは海軍だとされており、肉じゃがはビーフシチューにヒントを得たもので、考案者は東郷平八郎元帥だという。
一方、陸軍はというと、細菌学に長けていたドイツ医学を採用、脚気はウイルスだと考えていた。そこにドイツから陸軍軍医として帰ってきたのが森林太郎(鴎外)で、陸軍は海軍の結果には科学的根拠がないとして反発、日清戦争(明治27年=1894)が起きると全部隊に白米を支給した。その結果、戦死者の数倍の脚気による死者を出した。さらに日露戦争(明治37年=1904)では、陸軍は傷病死者3万7000人余のうち2万8000もの脚気による死亡者を出す。
――と、以上は非常に大雑把にまとめたものだが、この話をさらに詳しくかつ面白く読みたいと思えば、吉村昭さんの『白い航跡』をおすすめする。これは近代日本に西洋医学がいかに導入されたか(結果的にはこの問題に関わりなくドイツ医学になるのだが)という物語で、主人公は高木兼寛。高木はイギリスでチャリティによる無料の病院を目にし、日本にも同様の病院を設立する。明治皇后はじめ多くの援助者を得てできたのが、現在の慈恵会医大の基だ。また彼は、イギリスで看護婦という病人をケアするボランティア女性(それは上流階級の子女だった)の姿を目にし、日本に導入した人でもある。
ちなみにビタミンB1は明治43年(1910)、農芸科学者の鈴木梅太郎博士が、コメぬかから抗脚気因子として発見するのだが、これはビタミンという物質の世界初の発見である。
では、何で大正時代になって病気が広がったかというと、ビタミンB1の製造を天然物質からの抽出に頼っていたために値段が高かったことに加えて、ビタミンB1という物質は消化吸収率があまりよくなく、発病後の摂取がむずかしかったことなどが挙げられている。
最終的に脚気が完全に根絶されたのは、何と戦後も昭和27年(1952)になってからで、武田薬品工業が高吸収率のビタミンB1製剤の工業生産に成功、安価で販売を開始してからだと言われる。
この薬品が「アリナミン」である。
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この記事へのコメント
戦前、軍隊の食糧について研究してこられた故・川島四郎氏(桜美林大学教授)によると、納豆だった由。富士川の決戦で敗れた平家の敗因は、かれらは味噌を持参していなかったことによるとか。
納豆は当時の朝鮮民族も食べらてておらず、安価というので兵隊の糧秣として重宝されたそうです。納豆使用後、日本兵からは脚気はなくったとは川島教授の弁です。