April 03, 2006

最寄り駅近くの自転車道


 

 わが借家の近く、そう“元気な犬”の足でぶらぶら歩いて10〜15分ぐらいのところを多摩湖自転車道という自転車プラス遊歩道が通っている。五日市街道と井の頭通りの交差点を起点に、多摩湖まで続いているのだそうだが、ぼく自身は田無駅と小平駅の間しか走ったことがないので、全容は知らない。
 この自転車道の、ちょうどぼくが住んでいるあたりは、この時期、道の両側に桜が咲き誇る。そのことを知ったのは、この町に引っ越してきたのが秋の終わりだったから、翌年の春のことだった。
 これはうれしかった。ぼくの日常生活には「犬の散歩」というプログラムがあるのだけれども、それまで住んでいた千葉の東西線沿線の町は緑が少なく、どちらかといえば殺伐としたところで、散歩していてちっとも気持ちのいいところではなかった。それに比べれば緑はたっぷりだし(わが家のまわりには畑も多い)、しかも自転車・人・犬がゆける遊歩道があって、春には桜まで咲くのだもの。

 犬を飼う者にとって、散歩は義務である。ましてや、わが家の犬は外犬として飼ってきた(つまり、1日の大半は繋がれている)からなおさらで、わが犬どもを見ていると、その生きている喜びは、めしのほかは散歩しかないのではないかと思うほどだ。

 だから散歩に行った。理想は1日1回である。“理想は”と断っているのは、雨だの吹雪だの、夜遅くまで帰ってこなかっただの、風邪で熱があってフラフラするだの、ひどい二日酔いだの……等々、なかなかそうもいかなかったりするからで、だから「1日1回」はぼくの努力目標だ。時間は、許されれば――つまり、どこかに出かける用がなく、その時間に家にいることができたら、夕方がいい。朝がいいという人もいるかもしれないが、ぼくの場合、おおむね朝は死んでいるからで、夕方の陽が傾きかけた頃に出かけ、小一時間ほど歩いて――コンビニでタバコや週刊誌などを購おうと思えば、途中立ち寄って、店のまわりのどこかに犬を繋いで用事をすませたりして――陽が落ちる頃に帰ってくるのがいい。ときおり朝に散歩、ということもないではないけれども、それは徹夜明けのまま、気が向いたときだ。

 武蔵野で〜、一軒家に住んで〜、犬を飼って〜
 と言ったら、「あら、うらやましい」と言った女性がいたけれど、そんなうらやましがられるような話ではない。最初にごくごく小さな一軒家で外犬として飼い始めたので、独り暮らしになってからも外に犬小屋が、しかも2匹いたから2つ置けるところに住まなければならず、そうなると一軒家かそれに近いものにせざるを得ないじゃないの。
 でもって、犬の散歩というのは、犬が主体であって、飼い主はお供であり、その主な役割はうんこの始末である。「出物腫れ物ところ嫌わず」というが、お犬様たちはとにかくTPOなどお構いなし。もようしたら急に立ち止まって、前脚は突っ張り、腰を屈めつつ後ろ脚で踏ん張ると、やがてモリモリと脱糞される。だからぼくの場合、お供としての必携品は新聞紙をいくつかのピースに裂いたものと、コンビニでもらう小ぶりのレジ袋で、お犬様が脱糞されるたび、そのまだ温かい排泄物を新聞紙で取り、レジ袋に落とし入れて始末しなければならない(このうんこ取りのコツは、うんこをつかむ手に力を入れず、軽く取り上げることだ。力を入れると、まだなま温かいのがニチャッと潰れて、その感触がとても気持ち悪い。しかし、これは、うんこを取り続けているうちに上手くなる)。
 いま生き残っているクマは、信号機のある横断歩道を渡っているときに、そのど真ん中でいきなり立ち止まって踏ん張り、垂れるのが得意で、信号は赤に変わりそうだわ、うんこは拾わなければだわで、何度冷や汗をかいたことか。
 しかも2匹である。そのうえ「1度の散歩あたりうんこ1回ね」なんて約束なんかできないから、1度の散歩の途中で2回、多ければ3回ということもあって、何度「お前らなー、いーかげんにせーよー」とののしりのことばをつぶやいただろうか。もうレジ袋は2匹のうんこでずっしりなのだ。

 であるから、散歩させる者にとっては、少しでもその労苦が癒されるような、歩いていて心地よい散歩道がありがたいわけで、この多摩湖自転車道は、その意味でうれしかった。
 わが家から犬2匹を連れて、10〜15分ほどかけてこの道までやってくる(だいたいその間に2匹とも1回目のうんこをしている)。
 桜の時期なら道の両側に桜が咲き誇り、休日であれば道の脇にある小さな公園で、いくつもの家族連れが花見の宴を開いている風景を目にする。ぼくはそれを横目で見ながら、うんこ袋を下げて通り過ぎるだけだけど……。その時期を少し過ぎれば、散りゆく花弁を風が吹き流すから、桜吹雪の中を歩くことになる。

 夏は木々の葉が生い茂るので、道は日陰となって涼しい。公園の、自転車道に近いところに公衆トイレがあり、そのすぐ外に水道があって、この水道はわが家の犬たちが夏の散歩の途中、蛇口に口を近づけてごくごく水を飲み、渇きを癒す給水場所でもあった。
 秋は樹木の葉が色づき落ち始めて、人様にとってはメランコリな季節だが、犬たちにとってはくそ暑い夏が過ぎて元気なときだ。公園の端にはベンチがいくつか置いてあり、ぼくはときおりそのひとつに犬たちを誘って、タバコを1本吸って休憩したりした。
 冬は寒いのであまり行かないけれども、それでも少し暖かったりすれば、この道まで散歩に行った。新聞紙とうんこ袋を持って(くどいぞ)。

 犬――雑種の中型犬――を2匹散歩させるというのは、けっこう大変だ。2匹はそれぞれ勝手に歩くし、若いうちには力もそれなりに強いので、リードを持つ側も力がいる。千葉でのことだったが、一度、「私に散歩させて」と志願した女友達が、引き倒されて腕に擦り傷をつくって帰ってきたことがあったほどだ。
 しかし、4年半ほど前に体格的に大きかったほうのタツが死に、クマだけを連れて散歩したときに感じたのは、リードの何とも手応えのなさだった。2匹を連れて散歩させて14年半感じていた「ああ、大変」という手応えがいきなりなくなった、この空虚感は、そのままタツがいなくなった空虚感だった。
 そしていま、残ったクマも年老いて(何と言っても19歳なのだ)後ろ右脚が踏ん張れず、去年の春過ぎあたりから長距離を歩くことができなくなってしまったので、今年はまだ桜並木を歩いてはいない。

 散歩はお犬様のためだとずっと思ってきたのだが、かつてのようなそれができなくなってしまって、“犬と暮らす”ことの意味を思い知らされた。犬たちがうれしそうに歩く、その姿を目にしながら犬に合わせてぶらぶら歩くことは、じつはぼくにとっても大事な時間だったことを。



(01:05)

トラックバックURL

この記事へのコメント

1. Posted by モンブラン ボールペン アウトレット   May 07, 2014 17:22
こんにちは、友人そこにされている他の気難しい ウェブページ 酔夢楼日常:桜の下をまだ歩いていない。 - livedoor Blog(ブログ) PHPプログラミングの賛成でこの1つは良い気難しいいいである間投稿、%は、JavaScriptに関連する。

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔