August 07, 2005

 楊名時さんが亡くなったことを知ったのは、川越にある帯津三敬病院で、帯津良一先生に誘われ、病院の食堂でビールや何やらご馳走になっているときだった。
 このところ、某がん雑誌で帯津先生が語る「ホメオパシー」という連載を持っており、月に一度は川越か、昨年池袋にできた帯津三敬塾クリニックで先生にお話をうかがう時間をつくっていただいている。この日は夕方、1時間ほどのぼくの取材のあと、とくに用事がないということで、「一杯どう?」と誘われてご馳走になっていたのだが、四方山話の中で楊名時さんの話になり、「楊先生が、最後は帯津のところで死にたいとおっしゃっていて、7月3日のことだった」と先生が言ったのだった。楊さんは、よほど帯津先生のことを信頼していたのだとあらためて思った。

※帯津三敬病院やホメオパシーについて、ここで説明する余裕はないので、関心あるむきは、
 帯津三敬病院 
http://www.obitsusankei.or.jp/
 日本ホメオパシー医学会 http://www.jps-homeopathy.com/
 を参照してください。
 
 帯津先生の病院は、がんという病に対して、現代医学(近代西洋医学)のほか、いわゆる代替療法をも用いてアプローチしていることでよく知られているが、その代替療法の基本が気功で、現在でこそさまざまな気功法を指導されているが、その最初が太極拳だった。

 太極拳という健康法――本来は中国を代表する武術であり、革命後は毛沢東の指導で中国国民の健康として制定されたもので、「気功」という概念から言えばそのひとつだ――は、いまでは日本でもポピュラーだけれども、その普及にもっとも貢献した一人が楊名時さんだったと言っていい。
 
 じつはぼくは楊名時さんの孫弟子に当たる。であれば、「先生」と呼ぶべきなのだろうけれど、実際に楊さんから教えを請うたことはなく、そのお弟子のNさんから習い、ようやく一人でやれるようになった1年半ほどで、もっとディープな中国武術の世界に関心を持つようになって太極拳の源流である陳式太極拳や、太極拳と同じジャンルの内家拳のひとつとされる八卦掌などを学び始めたから「先生」という感じはない。その意味では、いま楊名時さんの太極拳を広めている日本健康太極拳協会理事長で息子さんの楊進さんは、ぼくは「八卦掌」を直接習ったことがあって、先生である。
 
 それはさておき、楊名時太極拳を習い始めたのは、ぼくが30歳になろうとかというとき。20代の頃からだらしない生活だったぼくも少しは健康を考えなくちゃね……というような半分義務感があり、その頃、テレビCMで郷ひろみが「カラダにいいこと、何かやってる?」と煽っていたせいもあって、何かやらなくちゃと探して決めたのが太極拳だった。そのきっかけはある編集者のエッセイを読んで、「これは気持ちよさそうだ」と思ったことだったのだけれども、実際に習ってみると、いやホント、気持ちいいんだ、これが。

 楊名時太極拳は、立ったまま瞑想を行う「立禅」(りつぜん)から始まり、「ソワイショウ」(文字がない)という腰回し・腕振り運動、それから「八段錦」(はちだんきん。楊名時太極拳では「はちだんにしき」と呼ぶ)という呼吸法(気功)をやり、そこから初めて24ある「太極拳」の型の練習をし、またこの順番を逆にたどって、終わる――というメニューになっている。
 このメニューの組み立ては素晴らしい、といまでも思う。
 
 
 中国で、そもそもは武術であった太極拳を健身術として普及させたのは毛沢東だった。彼は革命後、“中華人民共和国の建国にとってまず何より大事なのは国民の体育である”とし、選りすぐりの太極拳の達人たちを集めて、諸流派ある太極拳の型を編集させ、健康体操とでも言うべき簡単な太極拳をつくらせた。それが「簡化(24式)太極拳」で、24の型からなり、5分ほどで一通り終わる。中国の映像で早朝、公園などで人々が集って行われている太極拳がおおむねこれだ。もっとも、日本のテレビの報道などはいい加減で、別の気功でも集団でやっていると、「太極拳が行われ……」というようなナレーションを平気で流していたりするけどね。
 
 これをいち早く日本に紹介したのが楊名時さんだった。早めに断っておくが、「一番最初に…」ということではないよ。しかし、教え始めた当初はどうか知らないが、その型は24式ではあったものの、本場の簡化太極拳とは少しばかり違ったものだった。簡単に言えば余計な“手”が入っている。付け加えれば、速度も遅いので10分ほどになる。
 もう一つ。楊さんは、教えるのにあまりうるさくなかったらしい。手の位置、腰のカタチ、足のあり方……そして型の解釈。そのために、習った人が自分で解釈し、それをまた教えていく、ということになった(ぼくの友人にも指導者がいて、そのことはよく知っている)。
 それで一時期、“本格”を標榜する人たちからはインチキ呼ばわりされたこともあった。何が違って、どこが不自然かは、ぼく自身いろいろ学んだのちに何となくわかっているし、楊さんがどうやって簡化太極拳を知ったかについてもいろいろ聞いているのだが、そんなことはもはやどうでもいい。これだけ日本に太極拳を広めた功労者としての評価については否定できないからだ。
 
 ここからは、面白い話を一つ二つ。

帯津先生も指導のときは空手着1.楊名時さんは、楊家太極拳(という流派がある)の継承者ではない。ただし、中国武術の武術家ではある。その楊さんは、日本に来てから、そのことを隠して空手を学んだ。そして、空手である程度の地位(つまり段位)を得たところで、太極拳を披露し、普及させていく。このため、楊名時太極拳のユニフォームは空手に敬意を表して、空手着・黒帯になっている。
 ちなみに、空手着の原型は柔道着。明治時代に講道館柔道(いまの柔道ですね)を確立した嘉納治五郎が、沖縄から「カラテ」なる武術を行う船越義珍という名人を招き、表演させた。ところがカラテは農民の武術であって、稽古着などない。そこで講道館の柔道着を借りて表演した――ということから、カラテは柔道に敬意を表して柔道着を稽古着にしたらしい(詳しい人、間違っていたらゴメン)。
 つまり、楊名時太極拳のユニフォームのルーツは柔道着ということになる。
(写真は帯津先生。帯津先生も太極拳のときは空手着である。)
 
 次は息子さんの楊進さんから、八卦掌を学んでいるときだったか、その後ベースボールマガジン社が出していた『中国武術』という雑誌から、ぼくが太極拳などを学んでいたということから頼まれて、中国武術についての特集などで、何かといえばご協力を願っていた――進さんは理論家としてもすごいのだ――のときだったかに、酒飲み話として聞いた話。明かしてもいいのかしらん?
 
2.進さんが子供の頃、お父さんの名時さんに「街に遊びに行こう」と言われると、嫌で嫌でしようがなかった。なぜなら、楊さんは街に出ると酒を飲み、ヤクザ者などを探しては喧嘩を売って、得意の武術でこてんぱんにするのを楽しみにしていたからだそうだ。
 晩年の好々爺然とした楊名時さんからは想像できないが、武術家の武勇伝としてはよく聞く話で、自分が学んでいるものを試してみたいんだよね、きっと。
 
 
 もう楊名時太極拳から離れてずいぶんたった頃、ぼくが編集者という仕事だったから、最初の先生Nさんから、「太極拳の本を作りたいから手伝ってくれない?」という依頼を受けた。共著で、実技は自分がやり、何がからだにいいのかについては、太極拳を患者に指導している医者がいるので、その人が……というので、会いに行ったのが川越の帯津先生だった。話を聞いて原稿にするのかと思ったら(だって、Nさんてば、自分じゃ一字一句書かず、その部分はほとんどぼくが書いたのだ)、200字詰めで200枚ほどの手書き原稿をいただき、内容の確かさに舌を巻いた記憶がある。
 
 いま、帯津先生とは、公私ともにいろいろお世話になっている。この5月にがんで死んだ後輩Kの最後も、川越の病院で面倒を見ていただいた。
 その帯津先生と、病院の食堂でビールなどをご馳走になりながら、「そういえば、このご縁は楊名時太極拳だったな」と思い、思ったらいろんなことを思い出した。
 
 ちょっとそのことを書いておきたかった。  


(08:02)

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この記事へのコメント

1. Posted by tensekian   August 09, 2005 15:03
最近、「義珍の拳」なる書物を読んだところ、
講道館と義珍のいきさつが書かれておりましたが、
件の稽古着について書かれてあったか記憶があいまいです。

「義珍の拳」 今野 敏 (著)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4087747557
/qid=1123566024/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/249-6642319-1666765

縄の武家の秘儀で稽古も師匠との一対一で人目をはばかって
おこなっていた唐手を一般大衆化した空手として普及させた
船越義珍の功績をはじめてよく知ることができました。
また、その人間性も詳細に書かれていて、武道にまい進するひとの
清々しさを久し振りに感じた次第です。

では、失礼します。

転石庵
2. Posted by 転石庵   August 09, 2005 15:05
最近、「義珍の拳」なる書物を読んだところ、講道館と義珍のいきさつが書かれておりましたが、件の稽古着について書かれてあったか記憶があいまいです。

「義珍の拳」 今野 敏 (著)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4087747557/
qid=1123566024/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/249-6642319-1666765

沖縄の武家の秘儀で稽古も師匠との一対一で人目をはばかっておこなっていた唐手を一般大衆化した空手として普及させた船越義珍の功績をはじめてよく知ることができました。また、その人間性も詳細に書かれていて、武道にまい進するひとの清々しさを久し振りに感じた次第です。

では、失礼します。

転石庵
3. Posted by おーつか   September 20, 2005 16:25
はじめまして。
カラテは農民の武術、というのはむしろ逆で、手、唐手、いずれもかつては武士階級の占有物だったといわれているようです。

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