May 2009

May 04, 2009

 忌野清志郎が死んだ。
 そのことについては何も言うことがないが、東京に出てきて最初に見たのがRCサクセションだから、ちょっと書いておきたい。

 東京で高校生のフォークバンドがデビューしたのは、当時ぼくも田舎のフォーク少年だったので、ラジオで聞いて知っていた。それがRCで、『宝くじは買わない』『イエスタデイを歌って』という楽曲は聴いていた。しかし、レコードとライブは違うことを東京に出てきて思い知らされた。

 場所は渋谷・公園通りのいまはなき「ジアンジアン」。当時はここと、すぐ近くの「青い森」(じつはこっちは行ったことがない)が東京フォークのメッカで、RCのほか古井戸とかデビュー前の五輪真弓などが歌っていた。

 大学受験の時か、落っこちて東京出てきてからかもう憶えてはいないけれども、高校の一年先輩で「東京に出てきたら一緒にバンドをやろうね」と話していた彼に連れて行かれたのが「ジアンジアン」だった。
 前座が五輪真弓で、ぼくたちは最前列の席で見ていたのだが、ジョニ・ミッチェルやキャロル・キングをギターの弾き語りで聴かせ、「やっぱ、東京はすごかばい」と大いに思わせてくれたのだが、残念ながら風邪でも引いていたのか、鼻水が止まらない。それを手で拭い、啜り上げながら歌っているのだが、ぼくらは最前列にいるのでよく見える。
 以来、彼女はぼくらの間で“はな垂れ真弓”と呼ばれることになる。

 メインがRCサクセションで、これには驚いた。アコースティックのフォークギター2本にウッドベースという構成なのに、その音の大きいこと。チャンチャラチャラチャラ、ギターをかき鳴らしているぼくらとは大違いの音量なのだ。だから、途中でギターの弦も切れる。すると、キヨシロー氏はジーンズの尻ポケットからおもむろに新しい弦を取り出し、「次のは『チューニング』という曲です」など言いながら、弦を張り替える。
 あるいは首からホイッスルを紐で提げて、出ていこうとする客にホイッスルを鳴らして注意する……。
「東京のフォークシーンはすごかねえ」
 と、つくずく思わされたことだった。

 当時、「ジアンジアン」は月に1回、新人オーでションをやっていて、ぼくらも受け、優勝はダ・カーポという男女デュエットだったが、ぼくらも何とか合格者ライブとでもいうものに出ることができ、メインがRCだった。当日、楽屋でギターをチューニングしていると、バンダナを頭に巻いたキロシローがやってきて、ぼくが吸っていたタバコ「ハイライト」を見て「1本、いただけませんかね」と言ったので、もちろんあげた。

 それからどれぐらい後のことだろう。
 日比谷の野外音楽堂に上田正樹とサウス・トゥ・サウスを見に行った。
 前座が古井戸のチャボを迎え、すでにロックバンドとなっていたRCだったのだが、演奏を始めるやいなや、場内総立ちで、メインの上田正樹はすっかりかすんでしまった。ぼくは、「何だ、楽曲はフォークバンドの頃からちっとも変わっていないじゃないか」と思いつつも、その勢いを感じざるには負えなかった。

 それからまた何年か後。
 雑誌をやっていたぼくは、新作アルバムについてキヨシローにインタビューしたいと事務所に申し込んだ。それは断られたのだが、その時のマネージャーの言葉がいまだに忘れられない。
「あいつの歌の世界は、いまだに高校生のままなんですよ」
 キヨシローは同い年だと思っていたけれど、わずかに1学年上だった。

(01:17)