December 2006

December 13, 2006

 わが庵〈酔夢楼〉には文豪が棲まっている。
 名を言えば、誰もが知っている文豪である。

 目に見えるわけではない。
 手触りがあるのでもない。
 しかし、たしかに棲んでいる。
 いわば霊のような存在である。

 霊のようなものであるから、増幅されているのであろうか。
 まるで彼が3人いるような感じである。

 そはたれか。
 教えよう。
 坂口安吾だ。

 ワタシハタレデセウ

 

 

 

ワタシガサカグチデス。

 時、師走。
 例年のこととして、アタマが痛いのは大掃除だ。
 大掃除しなければ、新しき年を迎えることはもとより、冷気を凌ぐ炬燵を出すこともできぬ(一軒家は下がすぐ地面だから床からしんしん冷えてくるので、炬燵なくして冬は越せない)。
 しかるに、わが庵は本、雑誌、仕事の資料、その他実にさまざまなものが散乱し、かつ至る所――居室といわずキッチンのあるフローリングのスペースといわず――山積みになっており、人を招くこともできないばかりか、あるじとて玄関から居室までは一直線で行けるはずなのに、真っ直ぐ歩けないようなありさまにあるからだ。
 だから、片づけや掃除ということになると、どこから手を付けてよいのやら、途方に暮れてしまうのが常だ。

 たがせいか。
 その文豪の霊のようなものが、しかも3人分ほど棲まっているせいとしか思えない。
 ちっとはあるじの仕事のほうに乗り移ってくれればいいのに。


 



(21:36)

December 09, 2006

久々のディック・フランシスである

 

 

 

 

 

 

 愛読していた作家が死んで、何が寂しいかというと、当たり前だがもう新作を読むことができない、ということだ。

 例えば山田風太郎。20代の頃、『警視庁草紙』から始まる明治ものでハマり、以降、最後の『柳生十兵衛死す』まで、新刊が出ればすぐに買い求め、毎回わくわくしながらページをめくった。
 もちろん生前だが、仕事をしていた酒の雑誌から、「山田風太郎さんなんだけど、インタビューに行かない?」とお声がかかった時には、「もちろんイク、イク!」と、先輩のカメラマンと2人、多摩のご自宅を訪ねたことがあり、これはめったにない嬉しい仕事だった。『明治十手架』が出て、次がなかなか出なかった時だったから、失礼にも「次の作品は…」と訊ねたら、「もうあんまり目が見えないからねえ。それにもういいんじゃないかな」などとおっしゃるから、「いや、待ってますから」と申し上げたことを憶えている。
 だから、訃報を目にした時にはがっくりきた。「ああ、もう新しいわくわくは味わえないんだ」と。

 別に亡くなったわけではないが、「前作を最後にする」と言ったというようなことを聞いていたし、その時にもう70代後半で、年が年だからもう新作は出ないだろうし、ひょっとして死んじゃったかも知れないなあ、と思っていた作家がいた。
 ところが……出たんだよ、6年ぶりに!
 その情報を知ったのは、つい2カ月ほど前で、それから、いつ出るかいつ出るかと首を長〜〜〜くして待っていたら、「12月7日発売」という情報を得た。一昨日のことだ。だから、一昨日買った。どれぐらい首が伸びていたかというと、じつはその前日も「出版社は7日と言っているけど、1日ぐらい早く出るんじゃないか」と紀伊國屋を覗いたほどだ(やっぱりなかった)。
 ディック・フランシスだ! 競馬スリラーだ!!

 ディック・フランシスを初めて手に取ったのは、忘れもしない10代最後の年で、当時働いていた小田急線・経堂の商店街の古本屋でポケミス版の『大穴』を何気なく買ったのだった。
 一読して夢中になり、『大穴』はシリーズでは4作目だが、日本での翻訳刊行では2冊目だったから、すぐに1作目の『興奮』を買って、文字通り興奮した。
 以降ン10年、毎年11月頃に訳出される新作を心待ちにし、だから自慢じゃないか文庫版はほとんど持っていない。最初の頃のポケミス版か、その後のハードカバー版ばかりだ(ほとんど…というのは、1冊だけ最初から文庫版で出た作品があるからで、あれはなぜだったんだろう?)。

 ここから先は、読んだことがある人には余計な話だ。
 ディック・フランシスは、元英国の女王陛下お抱えの騎手(障害レース)で、引退の後、自伝本『女王陛下の騎手』を書き、あまりにも出来がよかったので、小説を書かないかと出版社から誘われ、ちょうど家族のことで金の要ることもあり、書いたのが第1作目『本命』だった。
 その世評にいわく、「とても元騎手が書いたものとは信じられない。これだけの力量を持つ作家が、たまたま騎手もやっていた、としか思えない」(ウロ憶えですが)と非常な好評を博した。いまちょっと調べたら1962年の作品だ。

 元騎手だから、その経験を大いに生かして、作品は英国競馬界あるいは競馬馬にまつわるものばかり。ゆえに「競馬スリラー」と日本では命名された(あちらでそう呼ばれているかどうかは知らない)。
 主人公は、最初はやはり騎手や調教師、あるいは競馬専門の私立探偵といった、競馬に直接関係ある男たちだったが、競馬界あるいは競走馬を題材としながらも、さまざまな職業の男たちの物語が生み出されていった。
 えー、思いつくまま挙げてみると、航空パイロット(馬を運ぶ)、秘密情報員、保険会社の誘拐ネゴシエイター、サバイバル・インストラクター、ワイン商、ガラス細工職人、それから……思いつかない(笑)。
 ま、他業種にわたっており、それぞれにその仕事がどういうものか詳しく綴られている。
 前作までの全39作品のうち、同じ主人公が再び登場するのは2シリーズ――それぞれ3作品と2作品――の5冊を除いて、皆主人公は違う。
 しかし、読むとどれもキャラクターは同じ。困難な状況に陥るけれど、その困難を乗り越えていく不屈の精神を持った男、という点で。
 シリーズの何が魅力かについては、「まあ、1冊手に取ってみてくださいよ」というしかない。勧めたら、これも一発でハマって、過去の作品をどっさりと大人買いした友人がいた、という話を紹介するにとどめるが、「競馬スリラー」といっても、競馬に詳しい必要など何もない。女性であれば、その主人公の真摯で素朴で、かといって品格があり、危機に怯えながらも立ち向かうキャラクターに惚れること間違いがない。
 映画化もされ、英国ではテレビシリーズにもなって、これはNHKで何本か放映されたが、原作を超えるものではなかった。

 その新作だ。
 シリーズは必ず2文字のタイトルが付けられており、今作は『再起』(原題はUnder Orders=命令の下に、というような意味だろうか)と、まるでフランシスの復活をも意味しているようなタイトルになっている。
 しかも、しかもだ。ぼくが初めて手に取った『大穴』以来、3作品に登場している競馬探偵であり、シリーズ最高の人気キャラクターであるシッド・ハレーの物語、というオマケまで付いた。
 ……とはいえ、喜べないこともあった。最初から一手に翻訳を手がけてきた菊池光さんが今年亡くなったことだ(これは『ミステリ・マガジン』のコラムを立ち読みして知った)。菊池さんの翻訳には、独特の文体があり、他シリーズで言えば、これも人気で長いロバート・B・パーカーの「私立探偵スペンサー」ものがあるし、『深夜プラス1』をはじめとするギャビン・ライアルの作品などもあり、読み手はその“菊池節”を通してそれぞれのシリーズを好きになったはずだ。
 例えば、R.チャンドラーなら、田中小実昌(通称コミさん)の訳もあるけれど、やっぱり清水俊二のそれが一番だ、というような(英語がわかる人にはコミさんのほうが原文の雰囲気をよく伝えていると言われるけれども、人気で言えばやっぱり叙情たっぷりの清水俊二版だろうね)。

 それでもディック・フランシスの新作が出たのは何より嬉しい(今年の10月で86歳だという!)。
 内容は?  翻訳の違和感は?
 もったいなくって読めません。「訳者あとがき」をちょこっと読んだぐらいで、児玉清サン(アタック・チャ〜ンス! ここんとこ、博多華丸の児玉清サンの真似で)の解説(この人はミステリ好きで原書で読むのだ)はストーリーも書かれてあるから、最初と最後だけ。
 仕事も立て込んでいるから、そんなせわしない時に読みたくない。
 そう、正月三が日あたりに、ゆったりと、バーボンでも啜りつつ、わくわくしながら読むつもりだ。

 で、今回の話は終わりなのだが、じつは同じようなサプライズが、先月にもあった。
 これは物故者ではなく、作品は出ていたマイクル・Z・リューインという作家で、デビュー時には“ネオ・ハードボイルド”という括り(これも日本での命名)だったのだが、創出した“ハードボイルド界でもっとも腕っぷしが弱く、心優しい私立探偵”アルバート・サムスン(最初の作品は『A型の女』)シリーズの最新作が、これはディック・フランシスを上回る、何と13年ぶりに出た。
『眼を開く』というのがそれで、尾羽打ち枯らしたサムスンが復活する、という物語だ。
 これも、シリーズ1作目から読んでいるぼくとしてはもちろん買うよね。で、読んだ。
 出来がいいかどうかは、評価はさまざまだろう。でも、シリーズものが好きな読み手は、そんなことはわりとどうでもいい。
 その世界に浸っていられることを幸せに思うのだ。



(19:39)