July 2006

July 26, 2006

位牌

 

 

 

 

 

 

 主のなき犬小屋につゆの名残り雨  タオ

“犬がいなくなった”という生活にまだ慣れない。
 出かけて用事をすませ、電車から最寄り駅のホームに下りると、「えー、帰ったらしなくちゃならないことは、まず犬の飲み水を替えて……」と考えている自分がいて、そうか、もう考えなくともいいんだと思い直す。
 家で仕事をしていて、屋根に雨が落ちる音が聞こえると、「ああ、雨が振ってきた」と庭の犬小屋に目をやり、そうか、もう気にかけなくてもいいのだと思う。
 愛犬家と呼ばれる人種ではないが、犬がいるから、そうした思考パターンは――19年という年月だもの――いつしか身に付いてしまう。

 クマの遺骸は、府中にあるタツが眠っている「慈恵院」というお寺にお願いした。ここを教えてくれたのはぼくの住む町の市役所だった。犬の登録管轄は役所の保健所なので、タツが死んだときにその処理について問い合わせたら、「市が動物の遺骸を処理するとなると、ゴミ扱いになります。それでよければ引き取りに行きますが、こんなところがありますよ」と教えてくれたのだった。
 それで、クマが死んだ夜、電話をしてみたら留守電ではあるが受け付けてくれ、こちらの住所・氏名・電話番号を伝言したら、さっそく翌朝連絡があり、昼前には遺骸を引き取りに来てくれた。火葬し、共同供養塔に合祀される(という。本当のところはわからない)。これで20000円だ。
 間を置かず、翌々日あたりにはペラペラの紙に死んだ犬の名前を書いたものが届く。
 これで、ザッツ・オール。そして、エンド。

 タツが死んだときに感じたことだが、独り者が犬を飼っていて、死んだときにやりきれないのは“悲しみの共有”というやつができないことだ。それが人ならば、いろんな人たちと出会い、友好を深めるから、多くの人がその“亡くなった人”がどういう人間であったかを知っている。だから、その人が死んだとき、生きていたころを思い出してともに悲しんでくれる。葬儀はそういう場になってくれる。
 ところが、ウチの犬の人生(犬生)の大半は、ぼくしか知らない。もらってきたばかりの頃は、別れた妻だって憶えているだろう。その後の一時期は、タツとクマを可愛がってくれた女友達がいて、その時期のことなら彼女は憶えているだろう。しかし、武蔵野に来てからの長い犬の生活については、ぼくしか知らない。しかも、家族持ちであれば、家族で共有できるのだけれども、ぼくの場合、それができない。

 クマが死んで、悲しいのではない。19歳まで生きたのだから、そのことに悔いはない。ただ、“犬のいない生活”にまだ慣れない。庭に目をやると、主のいない2つの犬小屋があり、手元にはもう誰も引くことのない2本のリードが残っている。



(22:59)

July 16, 2006

クマ

 

 

 

 

 この犬(雑種、♀)は西麻布の生まれだった。
 中野に住む夫婦にもらわれてきたとき、熊の子のようだったから、新しい飼い主に「クマ」と名付けられた。
 クマと名付けられたぐらいだから、毛の色は黒だったのだが、胸からお腹にかけては白く、4本の足にも白い“靴下”を履いていた。

 もらわれてきてみたら、その家にはその年が辰年だったから「タツ」と名付けられた犬(同じく雑種、♀)が自分より3カ月ほど前にもらわれてきていて、そのせいか先輩犬がイタズラでうるさいのに対し、控えめで温和しかった。飼い主の夫婦はタツを姉、クマを妹として扱った。散歩に連れて行かれて、クマが姉より前を歩くことはなかった。

 飼い主の夫は、先にもらわれてきたということからか、どちらかといえばイタズラでやんちゃなタツのほうを可愛がった。それに対して、妻は温和しいクマを可愛がった。
 2匹とも子犬の時を除いて、ある程度大きくなってからはずっと屋外の犬小屋(中野のそれは主人の手作りだった)で飼われたのだが、そんなある日、飼い主のちょっとした隙にクマがリードを外して逃げ出し、車道に飛び出してクルマに轢かれた。飼い主夫婦が、武蔵境にある獣医大の病院に連れて行ったら、医者が「骨盤が割れています」と言い、さらに「レントゲンを撮ったら、肺の中がフィラリアでいっぱいです。このまま生きても、あと3カ月ぐらいでしょう」と告げた。
 夫婦は、「そうか、この子はあと3カ月か」と思い、できるだけやさしくすることを心がけた。
 ところが、死ななかった。
 ばかりか、飼い主夫婦が離婚し、2匹の面倒は夫が見ることになって、中野から引っ越した先の千葉で、クマはどこのバカ犬かわからない(飼い主の不注意だ)子を産んだ。2匹産んだうち、1匹は死産で、飼い主は残った子(♂)にクマの幼名だった「モン」と付けたが、この子はもらわれていった先で「ヨタロー」と改名され、3年ほどで死んだらしい。

 その後、飼い主はさらに武蔵野に移り、タツもクマもさらに生きた。タツが死んだのは4年前、残暑が厳しい8月の終わりで、その2週間ほど前に突然目が見えなくなり、散歩に出ても壁などにぶつかるから、飼い主が近くでその地に住んで以来のかかりつけ医(といっても、2匹とも雑種のせいかほとんど医者の世話になることはなかったのだが)から、「てんかんによる脳出血」と診断され、「しばらく様子を見ましょう」と言われて様子を見ているうちに、ある朝死んでいた。14歳とちょっとだった。

 その晩、飼い主はタツをバスタオルにくるみ、本を入れていた段ボールの箱を空けて亡骸を収めて部屋に上げ、独り通夜をした。すると、クマが部屋に上がりたがるので、上げたらタツの入った箱の側に寝そべって動こうとしない。ああ、お姉ちゃんが死んだのがわかるのか、と、飼い主はその姿にあらためて涙を流した。
 やがて、クマは箱の中に首を突っ込んだ。タツの匂いを嗅いでいるのかと思ったら、冥土のみやげに入れたジャーキーを食べていた(笑)。

 ところが、その日を境にクマが変わった。散歩に連れて行こうとすると、飛び出すように駆け出す。その前に必ず一度タツの小屋を覗くので、タツがどこに行ってしまったのか探しに駆け出してることがわかるのだ。
 やがて、タツがいないことを認識するようになると、それまでなかったことだが、飼い主に甘えるようになった。甘えた鳴き声を上げるのだ。お腹が空いたといっては鳴き、庭の立木にリードが引っかかったといえば鳴く。そんなことはそれまでなかったことだった。 と同時に、ボケ始めた。目も緑内障で見えなくなり始めた。
 クルマに轢かれた後遺症が、今頃出てきたのかどうかはわからないが、右後ろ脚が麻痺しているようで踏ん張りがきかず、最初は散歩していると時おりヘタッと座り込んだりしていたのが、やがてトボトボとしか歩けなくなった。
 しようがないよな。何せもう19歳(年齢を間違っていたことは前に書いた)だもの、と飼い主も覚悟した。そして、あとどれぐらい生きるのだろうと思った。以前は2泊を超える出張だと、かかりつけの動物病院に預けていたのだけれども(それでも迎えに行くとストレスでヘロヘロになっていた。それはそうだ。動物病院には猫のほかさまざまな動物が“入院”しているのだから)、それも犬のことを思うと可哀想だったので、飼い主は2泊を超える仕事は断っていた。

 そして今日、飼い主がさっき大阪への1泊の仕事で帰ってきたら、クマが死んでいた。
 犬小屋と家の隙間にからだを潜めて硬直していた。
 今日もクソ暑かったから、身を身を潜めていたのだと思ったが、友人に電話をしたら、今日の東京は雷がひどかったのだという。クマは雷をすごく恐れる犬だった。タツは何とか我慢して犬小屋にいるのに、クマはこのときばかりは騒ぎ立て、数年前だが、南向きの居間のでかい網戸を食い破ってしまったことがあった。
 飼い主がいれば、なだめすかしたりしながら何とかしてきたのだが、この日は猛暑に加え、ひどい雷の怖さもあって、ついに力が尽きたのか……。

 クマはいま、飼い主であるぼくの横にいる。タツと同じように、ぼくが使ってきたバスタオルに包み、本を入れていたのを急遽空けた段ボールの箱の中で眠っている。タツの時は、ぼくとクマで見送ったが、今回はぼくだけなのがつらい。
 しかし、19年間の犬との生活は大変だったけれども、いま思い出されるのは楽しいことばかりだ。

 クマよ、タツよ。
 ぼくのような面倒見の悪いやつに巡り会って迷惑だったかもしれないけれども、ぼくはお前たちがいたから何とか今日まで生き延びることができた(それは多くのぼくの友人が指摘することだ)。そのことは、心から感謝しているよ。


 クマよ。ずっと昔、「余命3カ月」といった武蔵境の獣医大のヘボ医者を笑ってやろう。
 お前は、事故に遭いながらも、子供も産み、しかもこんなに長生きしたんだものね。
 ぼくは寂しいけど、お前は寂しくないはずさ。ずっと一緒に育ち、生きて、先に逝ったタツが待っているし(タツが眠っている同じお寺にお願いするよ)、お前の子のヨタローも向こうにいるからね。ヨタローが生まれたとき、お前が母として面倒を見、遊んでやっていた姿は、いまも憶えているよ。
 箱の中のお前は、本当にぐっすり眠っているように見える。
 19年の人生、いや犬生に疲れたんだね。
 ゆっくりお休み。

 ありがとう。



(06:05)