June 2006

June 27, 2006

立原正秋『美食の道』

 

 

 

 

 

 

 埼玉・川越市にある帯津三敬病院の帯津良一先生は、がん治療のホリスティック・アプローチで知られる。ぼくは知己を得て20年ほどで(その頃はほとんど無名だった)、近年はぼくが関わっている非営利市民団体にも力を貸していただいているほか、がんの患者およびその家族向けの雑誌の創刊に関して、その出版社の社長であり、昔の職場の先輩でもある人から「帯津先生に監修ということでお名前を借りられないか」と頼まれ、その橋渡しをしたことから、その雑誌自体にも関わることになり、ここ2年ほどは帯津先生の連載ページづくりのために、月に一度は先生にお目にかかっていた。
 で、ここ何カ月かは〈養生〉をテーマとしてお話をうかがっていたのだが、ナンとその雑誌がいきなり休刊するという連絡をもらい、先日は連載最後の話を聞きに川越まで行った。わが家から病院までは片道1時間。一方、先生へのインタビュー時間、わずか15分。これでA4サイズの雑誌2ページ分を仕立てているのだから、ぼくの腕前もたいしたものだ……って、これは褒められることでしょうかね?

 その短い(最後の)インタビューの中で、興味を引かれたのが、「食」に関する言葉だった。がんという病は“いのち”と裏腹なところがある。日常生活すべてが、この病に関わってくる。そこで、帯津先生が説く〈養生〉の基本は「こころ」と「食」と「気功」なのだが、一般にがんの食事療法というのはゲルソン療法にしろ玄米菜食にしろ厳しいものが多い。『粗食のすすめ』の著者であり、ずっと帯津病院の患者さんたちの食事相談を引き受けている幕内秀夫さんは、「そういうのは食事療法ではなく、修行だ」と否定的なのだが、先生もまた「いのちを支える食だからこそ、ときめきがないといけない」とおっしゃる。
 それで、その“食へのときめき”を表現するのに、何かよい言葉はないか、よいキャッチフレーズはないものかと思っていた……というのが、本稿の前振りです(われながら長いゾ!)。

 ある日、先生は書店で1冊の本に目を留める。すでに亡くなっている作家の食に関するエッセイを集めた文庫本で、最近出たばかりらしい。先生は、その作家の書く食の話が好きだったので買い求め、読んでいたら「これだ」と腑に落ちる言葉に出会った。
 作家は立原正秋。本は『美食の道』(角川春樹事務所グルメ文庫。にしても、何ちゅうタイトルだ! 著者が生きていたら、こんなタイトル、絶対に許可しなかったと思うぞ)。
 食に関する長短さまざまなエッセイがあるのだが、その中に〈希望がある〉〈希望がない〉という表現があり、先生はこの言葉にいたくインスパイアされ、患者さんたちに、「これからはこの言葉で行こう。何を食べればよいか――それは〈希望がある〉食べ物だ、と」と言っているのだそうだ。

「希望がある。」

 

 

 

 

 

 では、どんな食が〈希望がある〉と立原正秋は言っているのか。原稿を書くためにぼくも購入し、どこにその言葉があるのか探して読んだ。2カ所だけあった。

 立原正秋は、自ら食材を吟味して購い、包丁を振るう人である。
 その彼は、例えば冬の夜中に仕事をしていて腹が空くと、自分で簡単な雑炊をつくる。その作り方も簡単に記してあって、
《冷や酒をのみながら、この熱い雑炊をすするのである。まことに飾り気のない食べ物である》
 と言いながらも、《乾し海老を入れても楽しい。あかいいろどりが楽しい》などと、つくることを楽しんでいる。そして、子供たちが遅くまで勉強していれば、声をかけてともにすすり、こう書くのだ。
《この冬の雑炊には希望がある。上等な食べものではないが、日常のたしかさがそこにあるように思う。》(冬の夜の雑炊)

 あるいは、魚屋の店頭で吊し切りにした鮟鱇を購い、自分で鍋に仕立てたものの美味さを披瀝したあと、こう書く。
《いつだったか東京でこの鍋を食べたことがあったが、どうもいけなかった。味に希望がないのである。希望が持てない食べ物はつくづくいやだと思う。新幹線のビュッフェに入って見たまえ。電子レンジで暖めて出すあそこの料理には、なんとしても希望が持てない。八百屋で牛蒡を千六本にしたのを売っているが、あそこにはひとかけらの希望もないし、ましてあれを買う主婦にはまったく希望が持てない。そうした主婦をうしろからながめていると、うしろ姿がないのに気づく。のっぺらぽうなのである。》(鮟鱇鍋)

 この言葉はいいと、ぼくも思った。振り返ってみて、たしかにそうだと思った。時間がないからと飛び込んで掻き込む牛丼や立ち食い蕎麦に希望はあるか? ファミレスのハンバーグ定食に希望はあるか? 短い時間で届けることを身上としている宅配ピザに希望はあるか?
 希望があるかないかを分けるのは、食べたあとの満足感ではなかろうか、と思う。自分で包丁を振るい、楽しみ、つくった雑炊には満足感があるだろう。酒の肴である冷や奴だって、枝豆だって、そう言われれば豆腐はスーパーで買ってきたものせよ、薬味は自分たちで用意したものとそうでないもの、枝豆なら枝付きのものを買ってきて、自分たちで塩湯で茹でたものと居酒屋で出てくるものには、微妙な違いがあるような気がする。
 蕎麦だって、例えば神田・まつやで食べるそれには満足感があるし、ハンバーグだってピザだって、食べて満足する店はもちろんある。
 ということは、要はつくり手(自分であれ家族であれ専門家であれ)の“気”がどれぐらい入っているか、ということにならないか?

 いや、うまく言えない。ただ、立原正秋が言う〈希望〉については、何となくわかる感じがする。そのひとつ「日常のたしかさ」ということでは、イタリアのスローフード運動につながると思う。
 ……ということで、聞きたいのだが、アナタの今日の夕食には〈希望〉がありましたか?



(01:29)

June 18, 2006

定九郎のふんどし

 

 

 

 

 

 

『仮名手本忠臣蔵』の定九郎のシンボルはふんどし(ただし六尺)

 

 近ごろ巷で世人の多く参加するというソーシャルネットワーキングサイト(SNS)の「ミクシィ」なるものがどのようなものか、ちょいと覗いてみたいと思ったのだが、
 |か既参加者の紹介があり、
 ∋臆辰靴覆韻譴丱汽ぅ箸貌れない。
 ということで、若き友人(知り合いが多数参加しているらしいのだ)に紹介してもらって、参加した。
 参加してわかったことは、自己紹介さえしておけば自分のページがもらえるから、別に何か日記様のものを書かずともいいことだった(実際、友人・知人はいろいろいたが、ぼくの紹介者も含め、何も書いていないものも多い)。
 しかし、そこはそれ、“書いたらどうなるか”という反応も見たいじゃないの。それで書いたのが、以下のしょーもない――できるだけクダラナイことを書こうと思って書いた一文だが、サイトがクローズトなので、せっかく書いたのだから、ここに再録することにした。いや、本当にしょーもないのですが……・

「ふ・ん・ど・し」

 えー、ふんどしを3枚持っている。
 購ったのはずいぶん前のこと。居合を習っていたときだ。
 居合の稽古着は、剣道と同じで下が袴である。
 剣道もそうだが、袴の下は下穿きをつけず、ふりちんという人がいる(柔道の人にもいて、こういう人に逆四方固めで押さえつけられると、テキの道着の股のあたりがこちらの顔に当たって迷惑このうえない)が、ぼくはトランクス型のパンツを穿いてやっていた。

 ところが、ズボンのようにピッタリだとそんなことはないのだが、袴だと股間の辺りがたっぷりしているので、ナニがかなり解放される。解放されるから動作のたびにぶらぶら振れる。いわゆる“いんのう”がナニが寄っているほうの腿にぴたんぴたん当たる。

 稽古場は公立小学校の体育館で、むろん冷暖房設備などない。だから、冬場は冷蔵庫のように寒く(雪が降ったときなど、屋根に雪、校庭に雪だから冷凍庫だ)、夏はくそ暑い。しかも運動だもの、冷凍庫状態のときはともかく、夏場でなくたって稽古していると汗をかく。顔にも胸にも背中にも汗をかく。むろん太腿にも汗をかく。
 で、汗をかくと、このぴたんぴたんがぺたんぺたんに変わって、動きに連れて“いんのう”が太腿に貼りついたり離れたりして、とーっても気持ち悪いのだ。

 ならばブリーフにしてきゅっとまとめてしまえば問題は解決するのだが、そこはそれ、居合といえば日本の武道じゃないの。ここはメリケンわたりの下穿きではなく、ニッポン男児だ、ふんどしでいこうじゃないか――と思い立ち、新宿三越に足を運んで、いわゆる「越中」(三越は「クラシックパンツ」の名称でオリジナルふんどしを販売している)を3枚、1枚は古典的な白、あとはパステルカラーの薄い水色とベージュのやつを買ったのだった。1枚500円程度だったと記憶している。

 こいつは正解でしたね。ぶらぶらしないからぴたんぴたんもないし、サイドはといえば紐だけだから、トランクスなんかよりもずっと涼しい。稽古が終わって、汗まみれの顔を体育館前の水道場で洗い、手拭いがなければ、前部のひらひらを思い切り引っ張り上げて拭ける(そんなことはしない)。

 しかし、ふんどしはピッタリしたジーンズなどには向かない。そのひらひらが下腹部のあたりでダンゴになってしまって、これはこれで具合があまりよろしくない。 ふんどしを常用していたたこちゃん(故・たこ八郎さん)は、だからひらひら部分を切って短くしていた。

 で、三段取得を一区切りとして居合をやめてからふんどしは蔵ったままだったのだが、こないだ、何がきっかけだったかは憶えていないが(どうせ酔っているときに思いついたのだろう)、突然、「今年の夏はふんどしでいこう」と思い立ち、下着入れの奥から引っ張り出して――こういうものは、洗って蔵っておいても放っておくと黄ばむものですな――漂白剤に浸け込み(見事に黄ばみが消えた)、洗濯して、穿いてみた。
 なかなかよろし。


 ……という一文なのだけれど、そうしたら反応がすぐにあって、知り合いから「ミクシィにきたんですね」というのがあったばかりか、知らない人たちが大勢覗きにきたことに驚いた。しかもそれが誰か――その人のページが記載され、プロフィールで――わかるのだ。覗くだけでなく、何かコメントがあれば書き込めるので、
「ぴたんぴたんが『ぺたんぺたん』、よっくわかりやす。『いんのう掻い掻い粗にして漏らさず』になってしまいますよね」
 なんて書き込みもあった(この人は、ぼくの知り合いの知り合いなのだが、当人は知らなかった)。女性も何人かきていたが、題材が題材だけに、さすがに書き込みはありませんでした。



(04:14)

June 08, 2006

 例の「共謀罪」に関して、以下のようなメールが回ってきた。
 余計なコメントは付しません。そのまま掲載します。


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共謀罪に“Say NO!”
共謀罪法案反対NGO・NPO共同アピール

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Say ”NO” to 共謀罪 サイバーアクション

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「話し合うことが罪になる」
――共謀罪法案の審議が山場を迎えています。
 二人以上の人間が何かを計画したり話し合ったりしただけで罰せられる、戦前の治安維持法のような悪法、「共謀罪」という法律が、いまの国会で成立してしまうかもしれません。

 共謀罪関連法案(正式には「犯罪の国際化及び組織化並びに情報処理の高度化に対処するための刑法の一部を改正する法律案」)は、2003年にはじめて国会に提出されましたが、あまりにも危険な内容に、国会議員や一般市民、法律家団体などの反対が強く、これまでに二度廃案になっています。

 この法律ができると、たとえば官庁や企業にメールで意見送付を呼びかけるような、NGOが通常行なっている活動までも犯罪とみなされ、政権が嫌がる人やグループを思いのまま弾圧できる法律です。また、職場の待遇改善とか、マンションの建設反対といった要求さえ罪に問われかねないなど、民主社会の基本である言論と表現の自由が脅かされてしまいます。おまけに、計画にかかわっても自供すれば罪が軽減されるため、つねに密告や盗聴や警察スパイを警戒して、国民・市民どうしが疑心暗鬼で暮らさなければならなくなるでしょう。

 グリーンピース・ジャパンは去る4月19日、アムネスティ・インターナショナル日本、ピースボート、日本国際ボランティアセンター、VAWW-NETジャパン、反差別国際運動日本委員会、子どもと教科書全国ネット21とともに「共謀罪に反対するNGO・NPO共同アピール」を発表し、5月15日現在で189団体の賛同を得ています。反対世論の高まりとともに、ようやくマスコミも問題の深刻さを取り上げるようになり、衆議院法務委員会での強行採決に歯止めをかけてきましたが、政府・与党はすぐに採決の構えです(5月16日、5月17日、5月19日は世論の力もあって強行採決はされていません)。

 グリーンピース・ジャパンは共謀罪法案の廃案を求めます。

 ぜひこのサイバーアクションに参加して、法案審議を担当する国会議員、各党 代表、マスコミに共謀罪反対の声を届けてください。
 Say ”NO” to 共謀罪 サイバーアクションページ
http://www.greenpeace.or.jp/info/features/civil_liberty/cyberaction/

 からすぐにメッセージを送ることができます。 

 ここで送信すると、衆参の法務委員、首相、法相にメッセージを送ることができます。 
 ここで送信すると、衆参の法務委員、首相、法相にメッセージが送られます (主な DoCoMo、au などの携帯電話からも送信可能です)。

Say ”NO” to 共謀罪 サイバーアクションアクションに参加

グリーンピース・ジャパン事務局長 星川 淳

以前の情報
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5.19共謀罪法務委員会、
国会議員からの緊急報告集会

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5月19日の強行採決は回避されました。
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共謀罪に“Say NO!"――5・17院内リレートーク

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ご支援のお願い 下記ホームページを御覧下さい

http://www.greenpeace.or.jp/info/features/civil_liberty/

 



(00:11)

June 06, 2006

クマの子モン “靴下”を穿いているところは母犬そっくりだ。

 

 

 

 

 

クマの子どもモン。“靴下”を穿いているところなどはそっくりだ。

 T・Sエリオットの詩の一節に、
 The Naming of Cats is a difficult matter,
 というのがあるそうな。
“あるそうな”というのは人から教えてもらったからで、誰かというとイタミ先生である。それがいつのことだったかちょっと調べてみたら、何とぼくがハタチのときのことで、われながらよく記憶に残っていることだと感心してしまう。

 で、そのイタミ先生は続けてこうおっしゃっている。
伊丹十三『ふたたび女たちよ!』《……いかにも、たしかに猫に名前をつけることは大変に難しい。ただし、世の中には、この難しさを、知っている人と知らない人と二種類あるらしく、知らないほうの人人は、ただただ可愛らしく、甘ったるい名前をつけて能事足れりとなしているように見うけられる。つまり……女学生時代から一向に知能の成熟しない女(そうでない女がいるかどうかということは、この際ぜんぜん別問題として)そういう女に名付けられたとしか思えない名前の一群である。
 …大切なのはプリンシプルを持つことでしょう。…私の例でいうなら、私は自分の猫に日本語の名前しかつけない。なぜなら、私の猫は、当然名字が伊丹になるわけでしょう。西洋の名前をつけて、例えばジャッキー伊丹というようなことになると、これはどう考えてもバンド・マスターの名前であって、猫の名前ではなくなってしまう。》(伊丹十三『再び女たちよ』

 イタミ先生には、10代の終わりから20代の始めにかけて、実にいろいろなことを教えてもらった(もちろん著書からね)のだが、そのことはまた別の機会にゆずって、ぼくの場合は「犬の名前」だ。いや、別にエリオットのごとく「犬の名前は難しい」と思ったことはないけれど、命名のときにはたぶんイタミ先生の先の一文が意識のどこかにあったことはたしかだと思う。

 前にも書いたが、わが家には2匹の犬がいて、5年近く前に14歳半で死んだのが「タツ」、同い年でいまもボケながらしぶとく生き残っているのが「クマ」。どちらも♀犬で、その命名はというと、「タツ」は辰年生まれだったから、「クマ」は子犬のときに見た目が子グマみたいだったから……という簡単な理由からだ。しかし、われながらいい名前だと思う。というのも、イタミ先生が言うように、名字がぼくと同じならば、「○○タツ」「○○クマ」であるわけで、いまはともかく戦前だったらいそうな名前じゃないの。タツばあさんとか、おクマさんとかさ。そういえば「おとらさん」というマンガがあって、そのおとらばあさんを柳家金語楼がやった映画を観た記憶があるな……。

 タツは生まれてほったらかしにされていたのをもらってきたので、うちにきたときは無名だった。ところが、クマはもらいに行ったとき、すでに飼い主によって「モン」という名前がつけられていた。全体的には黒い毛に覆われているけれども、背中の首のつけ根あたり、首輪をすればそのすぐ下あたりにひとつまみほどの白い毛が生えていて、それが紋付きの背の紋章みたいだから、というのが命名の理由だということだった。
 だから、「モン」でもよかったのだが、わが家にきたらやっぱりこっちでつけたいと思うじゃないの。それで「クマ」と勝手に改名したのだが、因果はめぐるというか……。

 タツとクマがわが家族となって3年ほど経って、千葉は東西線沿線のある町へ引っ越した。引っ越した翌年の夏はひどくクソ暑かったのだが、クマだけは痩せもせず、というより、なぜかコロコロ肥っている……と思っていたら、ある朝、犬小屋を覗いて引っ繰り返った。子犬が生まれているじゃないの。一軒家ではなく、門などない住宅だったということもあるけれども、このあたりの犬を飼っている連中の文化程度が低く、夜、犬を放し飼いにしているバカどもがいるのだ。そうしたバカどもに飼われて放された、去勢もされていない犬(こっちも不妊手術をしていなかったからおあいこだと言われればそれまでだが、放し飼いにしているという点で、絶対に敵が悪いと思う)が、ぼくがいない間に落花狼藉におよび、子ができてしまったのだ。「妊娠に気がつかないなんて…」と人から笑われたが、犬をちゃんと飼うのはほとんど初めてに等しいから、わかんないよ、そんなこと。

 それで、その後、タツ・クマともに不妊手術を受けさせたのだけれども(その手術・入院のせいで2匹ともすっかり病院嫌いになってしまった)、それはともかく、クマが生んだのは2匹で、うち1匹は死産だった。生き残ったのは♂犬だったが、不思議なことに、父犬がどんなバカかは知らないが、この子犬もクマと同じくほとんど黒で、しかも同じように、背中に「紋」を背負っている。そこで、この子にはいわばクマの幼名である「モン」という名前をつけた。
 
 この子は元気がよかった。タツとクマと、そしてモンを散歩に連れて行くと、モンはクマにもタツにもじゃれかかる。クマは親だから(生んだらいきなり母になり、母の行動をとるという動物の習性も初めて体験した)相手をするけれども、タツ“おばさん”はある日いきなり現れた存在に、「こいつはいったい何なのよ」というとまどいを隠せない。だから、モンが近寄ってくると、脅えて吠える。すると、モンはそれに負けずに吠え返す――となかなか面白かったのだけれども、面白がってばかりはいられない。
 2匹飼っているだけでも大変なのだもの。この子犬をどうするか……。

 母犬自体が素性の知れない雑種であり、しかも父犬がどこのバカ犬だかわからない、そんな不憫な子犬をもらってくれようなんて慈悲深い人は、そうそういない。当時仕事をしていた会社の掲示板に、目一杯可愛く撮ったポラロイド写真を掲示してもらい手を募集したけれども、同僚は「可愛いね」というだけで、ちっともいい返事がない。えーっ? おれ、3匹も飼わなければいけないの? と、ほぼ観念しかかったとき、写真を見て、「可愛いですね。姉に聞いてみてもいいですよ」と言ってくれた人が1人だけいた。
 日本を代表する――と言っていいと思うが、バーテンダーの毛利隆雄さんだった。いまは銀座・電通通りで『毛利バー』を開いているが、当時はぼくが仕事をしていたオフィスが入っていた霞ヶ関ビルの、すぐ裏手のビルの地階にある『ガスライト』というバーのチーフで、その頃、酒の雑誌の仕事もしていたぼくは、カクテルのことのほとんどは、この毛利さんから教えていただいたといってもいい(最近は金がないから、なかなか毛利バーへは行けないのだけれども)。

 毛利さんのお姉さんは犬が好きで何匹が飼っているから、ということだったが、ありがたいことにもらってもらえることになり、毛利さんはぼくと同じ沿線に住んでいたので、電車で連れて行って渡すことにした。
 その日は、女友達がきてくれ、モンの体を洗ったあと、彼女が母犬のクマを散歩につれてゆき、その間にぼくがモンを持っていくという段取りにした。犬用のバスケットなど持っていないから、大きめのバッグにバスタオルを敷き、モンを入れ、首だけは出るように少しファスナーに隙間をつくって東西線に乗り込んだ。
 すると、ふだんは元気よく、うるさいほどのモンが吠えもせず鳴き声も上げず、温和しい。ファスナーの隙間から顔を出し、ぼくをじっと見つめたりしている。まるで、「これからぼくは、どこかにもらわれていくんですね」とわかっているような顔をして。だから、3つ4つ東京よりの駅で降り、バッグごと毛利さんに渡したときには、胸がいっぱいになってしまった。
 クマはといえば、散歩から帰ってきて、わが子がいないものだから、犬小屋のまわりを探し回り、三晩ほど悲しい鳴き声を上げていた。

 それからしばらくして、『ガスライト』に飲みに行った。毛利さんの手が空いた頃を見計らい、「犬はどうですか?」と聞くと、
「元気らしいですよ。外に繋いでいるのに、気がつくと家の中に上がってきているそうで」 と毛利さんは笑った。モンらしいと思った。うちでもそうだったのだ。
「何と呼ばれているんですか?」
 モンという名前の意味は、渡すとき伝えてあった。
「それが、姉の子どもが、こんど犬を飼うなら絶対こういう名前で、というのがあったのだそうで…」
“因果はめぐる”というのは、そういうことで、ぼくだってモンをクマに変えたのだもの。その子のモンが名前を変えられることは仕方がないじゃない。しかも、“絶対にこういう名前で”というのなら、きっとモン以上の名前に違いない。
「……ヨタローというんです」

 そのモン改めヨタローは――もちろんそれからずっと後に聞いたことだけれど――毛利さんによれば、3年ぐらいで死んだらしい。



(05:29)