May 2006

May 27, 2006

島村さんと愛娘。旦那さんはロシア人なのだ

 

 

 

 

島村菜津ちゃんと愛娘。旦那さんはロシアの人なのだ。

島村菜津『スローフードな日本!』

 島村菜津さんに初めて会ったのは、前著『スローフードな人生! イタリアの食卓から始まる』(新潮社)が出て間もなくだったから……ふーむ、もう6年近く前のことになるのか。
 書店で見かけたその本のタイトルの「スローフード」ということばにぼくのアンテナが反応し、即購入して一気に読み通し、あまりに面白いノンフィクションだったことと、「スローフード運動」に強い関心を覚えたことから、お会いしてみたくなったのだった。
 もちろん、「本を読んで面白かったから、会ってくれませんか?」とお願いして会ってくれるわけはないから、当時仕事をしていた某大学系の雑誌に提案し、インタビューというかたちでお会いしたわけだが、芸大の美術史専攻で、イタリアをフィールドとし、その前の本がレビューにいわく“トスカーナの闇を切り裂く怪物の影−68年から85年まで17年間に8組16人の男女が猟奇的に惨殺された。事件には外科医、覗き魔、霊媒や貴族までが次々に登場した。殺人鬼モストロはどこに…。戦慄のノンフィクション”という『フィレンツェ殺人事件』とか、同じく“カトリック司教に任命される実在する聖職、「公式エクソシスト」。ヴァティカンの依頼で極秘に資産家、貴族などを除霊したエクソシストに取材し、その儀式、社会的意味を描く”という『エクソシストとの対話』といったおどろおどろしいタイトルの本ばかりでもあるから、どんな人かと思っていたら……はは、気さくな九州女(福岡出身)でありました。

 ちなみに、ぼくが「スローフード」ということばを目にした最初は、この本が出るちょっと前ぐらいか、「スローフードに帰ろう」というコピーのカゴメの広告キャンペーンで、書店でこの本にアンテナが反応したのは、意識のどこかに“スローフードとは何ぞや?”と引っかかっていたのだろうね。そのときのカゴメの商品は、レトルトのイタリアン食材で、この本を読んでその意味するところを知ったら、そんなものはファストフードの部類であって、「スローフード」とは何も関係ない、というより、思想的には相反するものだということを理解し、インタビューのときにも「あの広告はひどいよねえ」と笑いあったものだ。

 そこからお付き合いが始まり――といっても、電話して、「暇なら飲みに行かない?」なんていうような付き合いではもちろんないぞ――ぼくが関係している非営利団体に招いて「スローフード運動」についてお話ししてもらったり、マクロビオティック関係の友人に紹介し、仲間内(といっても、ぼくはマクロビオティストではないが)の忘年会に呼んだり、その後に出て、これも大いにインスパイアされた『スロー・イズ・ビューティフル』(平凡社)の著者・辻信一さんにも会いたくて、ならば“スローつながり”でと、島村・辻対談を前出の某大学系雑誌で企画したり……と、折に触れてお会いしてきた。
 この島村・辻対談では、お話しを持ちかけると、お二人とも「会ってみたいと思っていた」と喜んでもらったのだが、この後、彼女は何と辻さんのフィールド(環境NGOなのだ)であるエクアドルまでついて行ってしまっている。

 で、『スローフードな人生!』だが、この本はその後の日本のスローフード・ムーブメントの火付け役となり、いまや日本国中に40を超える「スローフード協会」がある。果たして、そのすべてがイタリアで生まれたこの「スローフード」の思想を正しく理解し、“グローバリゼーションという名の世界の画一化”に抵抗しているのか、その実体についてはぼくは知らない。最初にできた「スローフード協会」の活動をホームページで見たら、何かイタリアワインのテイスティング会みたいな催事が出ていて、あらら……と思った記憶はあるけれど。

 そして、島村さんに会ってから6年近く。彼女が何をやっていたかというと、そうしたあちこちの「スローフード協会」に関わりながら、日本の食の現実を見て回っていた。その一部は彼女が雑誌に発表するものでときおり目にしていた。
 その集大成が、今度の著書『スローフードな日本!』だ。もちろん、すぐに読んだ。読んだら会いたくなって、3月だったか久しぶりに連絡を取り、会った。もちろん今回も建前はインタビューだ。

 本書の感想をひとことで言えば、前著『スローフードな人生!』の世界が牧歌的に見える、ということだった。何のかんのといっても、イタリアの人たちはまだイタリアの伝統的な食べ物を食べている。マクドナルドのローマ進出こそ止められなかったものの(これが「スローフード運動」の端緒であることはよく知られている)、いまだローマにはコンビニエンスストアはない。法律が禁じているからだ。
 それに比べたら……いや、日本の食の現実は比べようもないほどひどい。それは本書を読んでいて腹立たしくなるほどで、朝はトーストとコーヒー、昼はパスタ、夜は中華料理を食べて平気で、「あなたはいったい何人(なにじん)か」というのは、『粗食のすすめ』の幕内秀夫さんだが、そうした食のスタイルはもとより、食糧自給率4割にまでなってしまった現実、ヒタヒタと押し寄せる遺伝子組み換え食材の問題、その種子は片手の指で足りるほどの多国籍企業が握っているという事実……と、ホント、ヤになっちゃうぐらいで、この本を読みつつわが家の最寄りの駅で電車を降り、今夜の晩飯の買い出しと駅前のスーパーに入ったら、途方に暮れてしまったほどだった。

 しかし、どっこい日本でもがんばってるスローフーダー(本書ではこのことばは使われていないのだけれど)たちがいる――というのが、本書の主眼でもあり、また読む者にとって希望なのだが、だからここでも、その書評をやろうと思っていたら、非営利団体を運営する仲間から、ニューズレター用にもらった一文がとてもよいので、筆者の許可を得て、ここに掲載します。彼はわれわれの団体にも関わりながら、杉並区で「スローフード運動」をやっている人で、そのことならではの視点があるからだ。

■『スローフードな日本!』 島村菜津著/1575円(税込)/新潮社/06.02

 前著『スローフードな人生! イタリアの食卓から始まる』の出版から約6年。日本におけるスローフード運動は、すべてこの本から始まったと言っても過言ではない。
 著者はイタリアで出会ったスローフード協会とその運動の趣旨を極めて正確に理解し、自らの主張も交えながらそれらを伝えた。これは日本のスローフード運動の発展にとって幸福なことであった。だからこそ、それに触れた人々の多くは、島村菜津という媒介者に触れながら、「スローフード」という言葉の意味するものを日本で実践すべく、次々と支部を立ち上げながら参入していったのだった。

 2002年6月に新宿で(日本で「スローフード協会」と名乗りを上げた)支部リーダーズ会議0(ゼロ)会が行われた際、支部と呼べるものは9つしかなかった。いまやその数は46(2006年5月現在)になっている。4年前の新宿で、著者は、「私にとって今日はもっとも待ち望んでいた日」と興奮しながら述べていた。
 その頃すでに精力的に全国の生産者や加工業者を訪ねて回っていた著者が、当時こう語っていたのを思い出す。
「日本にはイタリアに負けないくらいスローフード的な題材が豊富にある。2003年の秋には『日本におけるスローフード』の本を出す予定だ」と。
 あれからさらに3年。ようやく本書が出版されたことを感無量に思う。
 とは言え、なぜ3年前に完成しているはずの本書が、ようやく今、出版されたのか。ここには、その後の著者と日本におけるスローフード運動の蜜月が微妙な形で終焉し、ある種の苦闘の様相を呈してきた背景がある。

 本書が前著『スローフードな人生!』ほど晴れやかな印象を与えず、希望とともにため息のようなものが感じ取れる気がするのも、単に日本の食にまつわる現状の難しさだけではなく、日本においてスローフード運動をきっちり根付かせていこうとすることの難しさに直面してきた月日が、ドキュメンタリー的に行間に刻印されているからだろう。

 2002年からわずか3年半で37もの支部が誕生した背景は様々だ。マスコミはこぞって「スローフード」という言葉を取り上げたが、肝心の中身は置き去りにされた。一方で、すでに持続的生産の現場に携わってきた人々にとっては、スローフードと言ってみたところで、自分たちのやることにとりわけ変化が生まれるわけでも箔がつくわけでもなかった。
 様々な状況の中での板ばさみ。その中で喘ぎながらも、なお自らがこの国にもたらした「スローフード」に望みを託し、活路を見出していこうとすること――著者・島村菜津の苦闘のドキュメントとして読まれるべき書物、それが本書だ。
          佐々木 俊弥(スローフードすぎなみTOKYOコンビウム代表)

 ぼくもぜひ多くの人に読んでもらいたいと思っている。



(23:49)

May 05, 2006

Kの病室の窓から見えた風景

 

 

 

 

 

Kの病室の窓から見えた風景(2つ目の多摩の病院)

 5月。
 5月を、「忘れないで 時は流れすぎても」とハスキーな声で最初に歌ったのはブレンダ・リー(『想い出のバラ』)だったが、忘れようがない。まだ1年なのだから。

 同業の後輩として紹介されたのが最初で、ここ10年近くは一緒に仕事をすることも多く、しかもお互い酒飲みであったから、ゆえに一緒に酒を飲むことの最も多かったKが、10カ月余の闘病に力尽き、がんで逝ったのが昨年5月で、あと5日ばかりで世間の習俗でいえば1周忌がやってくる。
 上記の諸条件に加え、Kもまたぼくと同じく離婚者で、元妻・子供たちとは居を別にし独り暮らしだったことと、この病の治療についてはぼくの仕事の領域の中で多少心当たりがあったことなどから、「調子が悪い」という最初の症状の相談から最後を迎えた病院の紹介と手配、そしてその死まで付き合った。

 といっても、病院の紹介等のほかは、月に2、3度見舞いに行き、ほんの短い時間、他愛もない世間話をして帰ってくるだけだったから、お世辞にも“面倒を見た”などと言えるものではない。では、誰が日々の面倒を見ていたかというとKの兄で、この兄貴もまたぼくやKと同様、独り者でフリーの編集者だったから、できる限り弟に付き添い、世話をし、合間を見て仕事をこなし、そして最後をベッド脇で看取ったのだった。
 ぼくはと言えば、この兄貴とはKが最初の病院に入院した時に初めて知り合ったのだが、そのあとはメールや電話で様子や症状の変化を聞いたりしていたに過ぎない。

 それにしても、弟とはいえ男手で1年近く病人の世話をするというのは並大抵のことではなかったと思う。しかも、Kは最初に見つかった脳の腫瘍の手術の影響で身動きに不都合が生じ、以降死を迎えるまで、ベッドか車椅子だったのだから。

 通夜・告別式は、“たぶん弟は嫌がるだろう”と坊主は呼ばず、だからお経もなかった。集まったほとんどは友人と仕事仲間だった。
 兄貴は、K――生まれは大阪――が奈良が好きだったから、このあとは奈良を訪ねて、弟が好きだと言った場所に遺灰の一部をこっそり撒いてくるつもりだと言い、その報告は、1カ月半ほど経った頃に、ぼくが知っている範囲の友人たちに声をかけて、ぼくとKがよく酒を飲んだ新宿の酒場であらためて“偲ぶ会”的な集まりを開いたとき(最近の斎場での通夜は時間が短いし、忙しないから)に、彼から聞いた。
 だから、例えば唐招提寺の敷地のどこかには、Kの遺灰が何食わぬ顔をして土に混じって在るはずだ。

 その後はとくに兄貴とコンタクトすることはなかった。「くたびれたので、北海道の友人ところへ行って、友人がやっているNPOの手伝いをしながら、しばらく心身を休めます」というような連絡をもらったきりになっていた。

 そして、時がひとめぐりしての5月。
 Kの兄はどうしているのだろう……と思っていたときに、彼から以下のようなメールが届いた。発信場所はマレーシアのペナンらしい。何でそんなところにいるのか……。


《 ご無沙汰しております。皆さま、いかがお過ごしでしょうか。

 早いもので、あれから1年が巡ってこようとしています。昨年秋には、納骨も済ませました。本来なら、仏壇の前で1周忌を行う筈ですが、思うところがあって、先月の初めに私は日本を発ちました。

 一昨年6月の緊急入院から最後の日まで、1日も病院を離れることのなかったKは、かつて訪れた国内外の思い出を、ベッドの上で繰り返し懐かしそうに語っておりました。中でも、20代後半に廻ったタイ〜マレーシアの印象はことさら強烈だったようで、その時の話になると、「チェンマイの落日は凄かった」「ロティ・チャナイ、旨かったなァ」などと楽しそうでした。その彼のために、手許に少しばかり残っていた遺灰を、それぞれの土地に撒いてやろう、と考えて出た次第です。
 先月には、タイのチェンマイを流れるピン川の川面に、そしてここペナンでは、今朝、ジョージタウンのビーチに散骨してきました。花も酒も無い、シンプルなセレモニーでした。朝日が実に爽やかで、仕事柄、夜型人間だった彼には、多少、眩しかったかも知れません。

 この後、クアラルンプール経由で東海岸を廻り、6月始めにはバンコクから帰国の予定です。 》


 葬儀の後には、Kが好きだった奈良を回って遺灰を撒き、1年後のこんどは同じくKにゆかりのアジアのあちこちで遺灰を撒いている。
 この行為を言葉にすれば「供養」ということになるだろう。
「供養」とは、逝ってしまった者の死を悼み、そのたましいに「安らかにあれ」と鎮める儀式である。
 しかし、このメールをもらって思った。
 それはひとり死者のためだけでなく、生き残り見送った者にとっても、その死を受容し、悲しむ己のたましいを鎮めるための儀式なのかもしれない、と。

 その意味で、このメールをここに載せたことを、Kの兄には許してもらいたい。
 この一文もまた、ぼくの、Kの1周忌の「供養」ということで……。



(22:09)