April 2006

April 27, 2006

サキソフォン

 

 

 

 

 

 

 

 きっかけは母校の建学祭

 やりたいなんて、卒業以来一度として思ったこともなかった。まして、またやり始めるなんて想像したこともなかった――。

 そもそもは大学時代の同期の友人に誘われ、卒業以来ほぼ4半世紀ぶりに母校T大の建学祭を覗いたことだった。そうしたら、その日が奇しくも、かつて所属していた「ジャズ研究会」が創立40周年を記念してOB会を結成するという日だった。実を言えば自分が何期生なのかも知らなかったのだが、その結成会に参加して1期生だというかなり年配の先輩方を目にしたら、何か感慨深いものを感じた。それで、仕事はまだまだ忙しいから、何がお手伝いできるかわからないけれど……という程度の気持ちでOB会の名簿に名を連ねた。2年半ほど前の秋のことだ。

 その1年後、OB会で「OBによるビッグバンドを結成しよう」という話が出た。そのときだって、積極的に参加する気持ちはなかった。いま振り返ると、卒業以来一度としてジャズ研のために何かしたことはなかった、という後ろめたさみたいなものからの遠慮もあったけれども、もうひとつは“箱”を開けるのが怖かったからだと思う。何せ卒業以来、一度も触っていないのだ。
 そのOBビッグバンドの練習は年明けから始まった。同期の誰か行っているだろうと思っていたら、「楽器が足りないから、もっと積極的にきてよ」というEメールが入って、それならちょっと行ってみようかと、埃をかぶった“箱”――テナーサックスのケースを開けた。マウスピースを付け、20数年ぶりに息を吹き込んでみた……おお、ちゃんと音が出るじゃないの!

 Dさん(1954年北海道生まれ)が大学入学してすぐにジャズ研究会に入ったのは、腕に覚えがあったからではない。高校まではボクシングや剣道に打ち込む、どちらかといえば体育会系少年だった。だから、大学では文化系の何かをやりたいと思っていた。もうひとつは、体育会系ではあったものの、音楽を聴くのは好きだった。とくに好きだったのは黒人系のソウルミュージックだったが、その一方でロック界ではホーンセクションを従えたBS&Tやシカゴなど、いわゆるブラスロックが台頭してきており、それらを聴いているうちにジャズ、それも大人数でホーンを吹き鳴らすビッグバンドジャズに関心が向いていった。

「それで、学校にジャズ研があるのを知り、楽器はできなかったけれども入ったんです。選んだ楽器はアルトサックス。一番できそうかなと思ったのと、テナー(サックス)より値段が安かったから(笑)。それでもヤマハのやつで15万円しましたね。その後テナーに変わり、テナーで卒業しました」(Dさん。以下同)

 そこからジャズに――というよりサックスにのめり込んだ。何しろ初めて手にする楽器だから、買って3ヵ月は暇さえあると吹いていた。学校近くにいたテナーサックスのプロのところへも習いに7ヵ月通ったほどの打ち込みようだった。
「いま思うと、ああいう熱中の仕方は、若いし学生だからできることですね」
 2年生の時には、大学のビッグバンドジャズクラブがしのぎを削る、Y楽器主催の「ビッグバンドコンテスト」での入賞を目指し、のちプロで活躍するT.K(ドラムス)、S.W(ベース)らのリズムセクションをメインにした楽曲でエントリー、優勝こそ同志社サードバードオーケストラにさらわれたものの、審査員特別賞を受賞する。

 新鮮な音楽の楽しみが

 トリオ、カルテット、クインテット……といった少人数のいわゆるコンボバンドのジャズとビッグバンドジャズの面白さは違う。
「コンボは自己主張の場ですが、ビッグバンドの魅力はまずそのパワーです。サックス5本、トロンボーン、トランペット各4本にギター、ベース、ピアノ、ドラムスのリズムセクションの総勢17人によるパワフルな演奏。そして、それら多彩な楽器が醸し出すアンサンブルも面白い」

 とにかく生活がジャズ漬けだった。卒論のテーマだって『黒人霊歌とニグロスピリチュアルズ』と徹底していた。しかし、就職先として選んだのは「会社員としてもいけるし、独立もできる選択肢がある」ということから、現在所属しているY社だった。同社は居酒屋チェーンの草分けであり、“フランチャイズ”という方式を初めて日本に持ち込んだ企業として知られる。
「当時は第2次オイルショックの後で、日本の経済も変わり始めていたし、わが社もサラリーマン向けの居酒屋から、女性や家族連れをターゲットにしようと方針転換を始めたところでした」
 外食業界だけに現場経験は必要だから、Dさんも焼き鳥を焼く修業もし、店長も数年務めたが、以降は人事畑一本槍でやってきた。

 ジャズは別に意識的に封印したわけではなかった。しかし、音楽とは無関係の世界で仕事を始めると、仕事はもとより、仕事上のつきあいなどで酒やゴルフなどといった雑多なものが否応なしに入り込んできて、それまで生活の一部を大きく占めていた音楽のプライオリティが下がってくる。
「サラリーマンは入社して5年が勝負だと思っていました。実際、何ができるか、何をやりたいかなんてことよりも、現実の仕事をやっていくのに精一杯でしたから、楽器に触ることもなくなったし、そうなると、やがてジャズそのものを聴かなくなってくる……そんな感じで、いつの間にか縁遠くなってしまって」
 それを再び呼び戻したのが、誘われてたまたま足を運んだ母校の建学祭でOB会結成の集いが開かれていたことだった。

 高田馬場のライブハウスで昨年年初から始まっていたOBバンドによる練習には、ちょっと遅れて参加したDさんだったが、
「25年ぶりにやってみたら、気分が爽快なんですよ。現役のときもこんなに気持ちよかったかな、と思うほど気持ちいいんです」

 学生時代はうまくやろうとか、受けなくてはとか、勝たなくてはというような思いが先行する。そうした枷がなくなって、ジャズはいま、もっと自分のところに寄り添い、自分を解放し、演奏している自分自身を大いに楽しませてくれている――これは学生時代には感じたことのない新たな感覚だった。
「中高年のバンドブームだと言われているけれど、それはバンドをやることの何ともいえない楽しい感覚をもう一度味わいたいという思いだけでなく、いまやってみると昔とは違う楽しさがあるからだと思いますね」
 役者は一度板(舞台)を踏むとやめられないというが、音楽も同じだ。大勢の聴衆を前にステージで披瀝する快感は、やった者でないとわからない。「中高年のバンドブーム」とは、昔が懐かしいのではない。あの快感をもう一度味わいたいという、いまの希求がなさしめているものだと思う。

 で、Dさんだが、一度火がついた音楽ゴコロは止めようがなく、何と会社内でも動き出す。日本経済が底の底で暗かった昨年春、社内を活性化する何か新しいムーブメントを起こそうと思い、役員会で「社員バンドの結成」を提案する。これが社長に気に入られ、バンドづくりすることになったのだ。社内メールで募集をかけたら……いるいる。いまでも吹奏楽をやっている連中や、かつてプロのブルースギタリストだったというようなやつまで、いろんな“隠れミュージシャン”が社内に棲息していた。
 そういう連中を集めて、社内バンドを結成した。下は20代、上はDさんの49歳。目標は今年の新入社員歓迎会――だったけれども、お呼びがかかって1月の「全国店長会議」でお披露目をした。そのときの演目はジャズではもちろんなく、〈トップ・オブ・ザ・ワールド〉〈イエスタディ・ワンス・モア〉〈コンドルは飛んでいく〉などのポップスだ。

「でも、そこに音楽をやっている自分がいて、(ジャズではなくとも)楽しんでいるのは確かなんです。音楽がこれほど楽しいことだったとは、同世代で若い頃に楽器をやらなかった連中を不憫に思うほどです(笑)。OBバンドも、このバンドも、年代などバラバラです。スポーツなら若いのと競うのは無理だけど、でも音楽なら世代や年齢は関係ない。社内の場合、仕事の上では上司・部下というような関係になってしまうけれども、音楽の場ではそれがない。そうしたところもとても気に入っています」

 というわけで、今年のY社の新入社員は、Dさんたちのバンドのウェルカム・ミュージックで迎えられるはずだ。そのときの楽曲は、KinKi Kidsの〈フラワー〉とかKiroroの〈ベストフレンズ〉、森山直太朗の〈さくら〉などのはずである。
                                                                              

(2004年2月に書いたものを一部加筆訂正しました)



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April 03, 2006

最寄り駅近くの自転車道


 

 わが借家の近く、そう“元気な犬”の足でぶらぶら歩いて10〜15分ぐらいのところを多摩湖自転車道という自転車プラス遊歩道が通っている。五日市街道と井の頭通りの交差点を起点に、多摩湖まで続いているのだそうだが、ぼく自身は田無駅と小平駅の間しか走ったことがないので、全容は知らない。
 この自転車道の、ちょうどぼくが住んでいるあたりは、この時期、道の両側に桜が咲き誇る。そのことを知ったのは、この町に引っ越してきたのが秋の終わりだったから、翌年の春のことだった。
 これはうれしかった。ぼくの日常生活には「犬の散歩」というプログラムがあるのだけれども、それまで住んでいた千葉の東西線沿線の町は緑が少なく、どちらかといえば殺伐としたところで、散歩していてちっとも気持ちのいいところではなかった。それに比べれば緑はたっぷりだし(わが家のまわりには畑も多い)、しかも自転車・人・犬がゆける遊歩道があって、春には桜まで咲くのだもの。

 犬を飼う者にとって、散歩は義務である。ましてや、わが家の犬は外犬として飼ってきた(つまり、1日の大半は繋がれている)からなおさらで、わが犬どもを見ていると、その生きている喜びは、めしのほかは散歩しかないのではないかと思うほどだ。

 だから散歩に行った。理想は1日1回である。“理想は”と断っているのは、雨だの吹雪だの、夜遅くまで帰ってこなかっただの、風邪で熱があってフラフラするだの、ひどい二日酔いだの……等々、なかなかそうもいかなかったりするからで、だから「1日1回」はぼくの努力目標だ。時間は、許されれば――つまり、どこかに出かける用がなく、その時間に家にいることができたら、夕方がいい。朝がいいという人もいるかもしれないが、ぼくの場合、おおむね朝は死んでいるからで、夕方の陽が傾きかけた頃に出かけ、小一時間ほど歩いて――コンビニでタバコや週刊誌などを購おうと思えば、途中立ち寄って、店のまわりのどこかに犬を繋いで用事をすませたりして――陽が落ちる頃に帰ってくるのがいい。ときおり朝に散歩、ということもないではないけれども、それは徹夜明けのまま、気が向いたときだ。

 武蔵野で〜、一軒家に住んで〜、犬を飼って〜
 と言ったら、「あら、うらやましい」と言った女性がいたけれど、そんなうらやましがられるような話ではない。最初にごくごく小さな一軒家で外犬として飼い始めたので、独り暮らしになってからも外に犬小屋が、しかも2匹いたから2つ置けるところに住まなければならず、そうなると一軒家かそれに近いものにせざるを得ないじゃないの。
 でもって、犬の散歩というのは、犬が主体であって、飼い主はお供であり、その主な役割はうんこの始末である。「出物腫れ物ところ嫌わず」というが、お犬様たちはとにかくTPOなどお構いなし。もようしたら急に立ち止まって、前脚は突っ張り、腰を屈めつつ後ろ脚で踏ん張ると、やがてモリモリと脱糞される。だからぼくの場合、お供としての必携品は新聞紙をいくつかのピースに裂いたものと、コンビニでもらう小ぶりのレジ袋で、お犬様が脱糞されるたび、そのまだ温かい排泄物を新聞紙で取り、レジ袋に落とし入れて始末しなければならない(このうんこ取りのコツは、うんこをつかむ手に力を入れず、軽く取り上げることだ。力を入れると、まだなま温かいのがニチャッと潰れて、その感触がとても気持ち悪い。しかし、これは、うんこを取り続けているうちに上手くなる)。
 いま生き残っているクマは、信号機のある横断歩道を渡っているときに、そのど真ん中でいきなり立ち止まって踏ん張り、垂れるのが得意で、信号は赤に変わりそうだわ、うんこは拾わなければだわで、何度冷や汗をかいたことか。
 しかも2匹である。そのうえ「1度の散歩あたりうんこ1回ね」なんて約束なんかできないから、1度の散歩の途中で2回、多ければ3回ということもあって、何度「お前らなー、いーかげんにせーよー」とののしりのことばをつぶやいただろうか。もうレジ袋は2匹のうんこでずっしりなのだ。

 であるから、散歩させる者にとっては、少しでもその労苦が癒されるような、歩いていて心地よい散歩道がありがたいわけで、この多摩湖自転車道は、その意味でうれしかった。
 わが家から犬2匹を連れて、10〜15分ほどかけてこの道までやってくる(だいたいその間に2匹とも1回目のうんこをしている)。
 桜の時期なら道の両側に桜が咲き誇り、休日であれば道の脇にある小さな公園で、いくつもの家族連れが花見の宴を開いている風景を目にする。ぼくはそれを横目で見ながら、うんこ袋を下げて通り過ぎるだけだけど……。その時期を少し過ぎれば、散りゆく花弁を風が吹き流すから、桜吹雪の中を歩くことになる。

 夏は木々の葉が生い茂るので、道は日陰となって涼しい。公園の、自転車道に近いところに公衆トイレがあり、そのすぐ外に水道があって、この水道はわが家の犬たちが夏の散歩の途中、蛇口に口を近づけてごくごく水を飲み、渇きを癒す給水場所でもあった。
 秋は樹木の葉が色づき落ち始めて、人様にとってはメランコリな季節だが、犬たちにとってはくそ暑い夏が過ぎて元気なときだ。公園の端にはベンチがいくつか置いてあり、ぼくはときおりそのひとつに犬たちを誘って、タバコを1本吸って休憩したりした。
 冬は寒いのであまり行かないけれども、それでも少し暖かったりすれば、この道まで散歩に行った。新聞紙とうんこ袋を持って(くどいぞ)。

 犬――雑種の中型犬――を2匹散歩させるというのは、けっこう大変だ。2匹はそれぞれ勝手に歩くし、若いうちには力もそれなりに強いので、リードを持つ側も力がいる。千葉でのことだったが、一度、「私に散歩させて」と志願した女友達が、引き倒されて腕に擦り傷をつくって帰ってきたことがあったほどだ。
 しかし、4年半ほど前に体格的に大きかったほうのタツが死に、クマだけを連れて散歩したときに感じたのは、リードの何とも手応えのなさだった。2匹を連れて散歩させて14年半感じていた「ああ、大変」という手応えがいきなりなくなった、この空虚感は、そのままタツがいなくなった空虚感だった。
 そしていま、残ったクマも年老いて(何と言っても19歳なのだ)後ろ右脚が踏ん張れず、去年の春過ぎあたりから長距離を歩くことができなくなってしまったので、今年はまだ桜並木を歩いてはいない。

 散歩はお犬様のためだとずっと思ってきたのだが、かつてのようなそれができなくなってしまって、“犬と暮らす”ことの意味を思い知らされた。犬たちがうれしそうに歩く、その姿を目にしながら犬に合わせてぶらぶら歩くことは、じつはぼくにとっても大事な時間だったことを。



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