September 2005

September 25, 2005

 この一文は昨年(2004年)春に書いたものです。

 

 

マンダム 昨夏の終わり、一人のアメリカ人男優の死が報じられ、その訃報を目にした多くの日本人があるフレーズを思い出した。

男優はチャールズ・ブロンソン。そのフレーズとはもちろん〈ウーン、マンダム!〉……と、つい想像してしまったほど、「ブロンソン」といえば「マンダム」、「マンダム」といえば「ブロンソン」のイメージの結びつきは強い。実際、日本のマスコミ報道で、「マンダム」に触れなかったものは一つも目にしていない。

 

 戦後生まれの男の子たちのオシャレは、まず髪の毛から始まった。

その先駆的商品が、1962年(昭和37)にライオンが若者をターゲットに、米国ブリストル・マイヤー社と提携して発売した液体整髪料「ヴァイタリス」だ。それまで整髪料といえばポマードやチックといった、髪の毛を固めるベタベタ系のものしかなく、しかしそれらは、たとえば僕の中ではそれらは“父親のニオイ”として記憶されているほどオッサン臭いモノだった。

 そこへ登場した「ヴァイタリス」は、当時花開きかけていたアイビーファッションの、短髪をナチュラルに七三に分けるアイビーカットをキメるのにピッタリだと、またたく間に若者に膾炙していった。

 

 続いて登場し、若者たちのオシャレごころをさらに煽ったのが、資生堂が1967年(昭和42)に発売した「MG5」シリーズだ。ヘアリキッド・トニックといったヘアケア製品はもとより、スキンケアからフレグランスまでトータル23品目というラインナップで、ここにおいて「男性化粧品」というジャンルが初めて生まれたといっていい。

 この「MG5」によって男性化粧品という市場がつくりあげられたところへ、いきなり登場し、いきなり市場を奪ったのが、チックの代表的ブランドだった「丹頂」が起死回生をかけて投入した「マンダム」で、1970年(昭和45)のことだ。

 

前年に公開された仏映画『さらば友よ』で、主役のアラン・ドロンを食う存在感で注目されたとはいえ、まだまだ有名とはいえなかったブロンソンを広告キャラクターに起用、「MG5」が団次郎(朗)や草刈正雄といったバタ臭いイケメンキャラクターでスマートなカッコよさをアピールしたのに対して、やっぱり丹頂というべきか男臭い外国人オッサンで勝負、見事に大当たりして、以降8年にわたって「マンダム=ブロンソン」攻勢は続き、そのブランドを揺るぎないものにするとともに、発売の翌年には社名も「マンダム」に改めている。

 

 その成功は、極論すればブロンソンというキャラクターに負うところが大きかったと思うし、ブロンソンも日本では「マンダム」のおかげで津々浦々まで知られた、と思う。

 報道によれば、ブロンソンの訃報に対し、マンダムでは供花を送ったという。

(『P's ANIMO』誌 2004.spring号掲載分に一部加筆)

※ちなみに、ブロンソンのCMの監督は、まだメジャーデビュー前の大林宣彦さん。ここから、いわゆる“外タレブーム”が始まるのだが、大林さんはソフィア・ローレン(ホンダの女性向けバイク“ラッタッタ”)はじめ、外タレCMの多くを手がけている。



(02:07)

September 07, 2005

●1本目

Hot pepper 地下鉄にて。
 座席シートの右端に坐っていたら、すぐ右手、乗降ドア前に立っていた女子高生と思しき2人連れの話し声が聞こえてきた。
「この雑誌って、“熱い紙”という意味よねえ。どういうことなんだろ?」
「わかんなーい」
“熱い紙”とはどんな雑誌ぞ? と首を右にひねって見上げたら、1人が雑誌を広げていて、表紙に『Hot Pepper』とあった。

 もう少しお勉強をがんばるようにね。

 

●2本目

 大阪から単身赴任で東京に来ていて、ついこの間大阪に戻った友人のT氏。
 居酒屋でとりとめもない話をしていたら、きっかけは何だったか、ぼくが「不義密通は……」と言ったら、
「それはあきまへんわ。多すぎる」
 とT氏。
「へっ?」
 と問い返すと、
「不義も、ひとつやふたつならともかく、3つは多いわ」
 あのー、“3つ”じゃなくて、“密通”なんだけど……ま、たしかに“不義3つ”は多いわな。

●3本目

 ファストフードの代表、Mクドナルドの広告キャンペーンのキャッチコピーにいわく、

  ファーストフード。
  そのおいしさや安心は、
  スローにつくられています。

Mクドナルドの広告「スロー」ということばに新たな意味を付与したのは、イタリアの田舎町から発せられた「スローフード運動」だが(それについては島村菜津著『スローフードな人生!』=新潮文庫=に詳しい。いい本です)、その発端がローマに進出しようとしたMクドナルドに対する反対運動だったことはよく知られている(結局進出しちゃったけど)。
 その運動の理念は、ファストフードに象徴される大量生産・大量消費・大量廃棄を前提としたグローバリゼーションを強いるアメリカ的世界侵略に対する抵抗で、それを“自分たちの食の文化を護り、子供たちに伝承していく”という地点から始めよう――というものだ。
 一方、シューマッハー『スモール・イズ・ビューティフル』を文字って『スロー・イズ・ビューティフル』なる本を著し、マクドナルド的20世紀的価値観からの転換を訴えたのが文化人類学者の辻信一で、その“スロー”には“エコロジカルでサスティナブルなあり方”という意味が込められていた。

 しかし、いまやことばもまた消費されていくものでしかない。「スロー」ということばもまた使い回され、都合のいいように曲解されて、ついにはMクドナルドが企業イメージの広告キャンペーンに使うまでになってしまった……という、笑っちゃうけど笑ってはいられないお話しでした。



(06:46)

September 06, 2005

叡山から琵琶湖を望む この夏、急に思い立って比叡山に行ってきた。

 思い立ったのは、滋賀は琵琶湖畔の町・大津に取材に行ってほしいとの急な依頼があったことだった。大津は京都で新幹線を乗り換えると東京からは片道3時間だから、当然日帰りの行程だ。ところが取材日はお盆入り直前の12日で、しかも金曜日。ひょっとしたら新幹線が満員になるのではと思い、ならば前乗りするか(もちろん泊まり代は自腹である)。前乗りするとしたら、その日はどうするか……と、ウェブで取材先のあたりのことを調べたら、最寄り駅が「比叡山坂本」とあるじゃないか。
 そうかそうか、坂本であったか。ならば比叡山延暦寺の門前町ではないかいな――ということで、急遽、「よし、比叡山に行こう」と決めて出かけたのだった。

 比叡山には前々から一度行かなければと思っていた。
 その理由についてはあとに述べる。
 ともあれ新幹線「のぞみ」で京都まで行き(朝に出たのだが指定席はすでに満席だった)、京都でJR湖西線に乗り換えるとわずか15分程度で「比叡山坂本」駅につく。
 徒歩で延暦寺へ行く人は、ここから「坂本ケーブル」というケーブルカーに乗る。このケーブルカーは、事前に調べた情報によれば、日本一長いのだという。全長2025メートル。これを11分で登りきる。
 といっても、比叡山坂本駅とケーブルカーの駅が近いわけではない。駅前からバスが出ていて、これもウェブの情報では“所要時間7分”とある。そして、ケーブルカーの発車時間は、毎時00分と30分。
 で、僕が比叡山坂本駅に降り立ったのは午後1時05分。駅前にはバスがスタンバイしている。しかしバスで7分ならたいした距離ではないかもしれないと思い、駅の売店のおねえさんに「歩いてどれぐらい?」と聞くと、「20分ですね」という。ならば、5分前には着くな。よし、ここはひとつ日頃の運動不足を補うためにも歩いていこう。

 ……歩き出して3分で後悔しました。
 だいたい琵琶湖畔というのは、夏は暑いばかりか湿気が高い。延暦寺の坊さんたちの日常をケーブル駅までの道言い表したことばに「論湿寒貧」(ろんしつかんぴん)というのがある。「論」は議論、「貧」は質素な生活、そして夏は湿気て暑く、冬は寒い――という意味だが、歩き出した途端にそのことばを思い出した。暑い! しかも、麓から山に向かっていこうというのだから、ゆるやかだが登り道である。
 でもって、歩けども歩けども、それらしい建物がちっとも見えてこない。曲がりくねった登り道がひたすら続くだけなのだ。20分で到着しなくちゃと思うから、自然足は速くなるよな。暑いうえに速歩(はやあし)だから、日頃運動不足のこともあって、息が切れてくる。

 そのうち「駅まで500メートル」なんて看板が目に入る。まだ500メートルもあるの? と時計を見ると発車まで10分を切っている。さあ、さらなる速歩が必要だが、登り勾配は歩き始めよりきつくなっている。
 暑い。汗が噴き出る。足は疲れてきた。息は上がっている――で、何とか駅にたどり着いたのだが、ぎりぎり滑り込みセーフだった。あの売店のお姉さんの言う「20分」というのは、ひょっとしたら回峰行をやる比叡山の初心者坊主の速度ではないかと思ったほどだ。

 それからケーブルカーに乗り込んだものの、汗が止まりゃしない。頭からからだから出るわ出るわ、ジーンズのベルトにぶら下げていた和手拭いで拭っても拭っても吹き出てくる。結局、山頂の駅に着いても止まらないから、駅のトイレの水場で顔を洗い、水で濡らした手拭いで胸や背中を拭いて、ようやく落ちついたのだった(たまには運動して、いい汗かけよ!)。

延暦寺までも山道である さて、そこからまたしばらく山道を歩いていくと、やがて山門が見えてくる。
 伝教大師最澄が開いた比叡山延暦寺――世界文化遺産である――は、天台密教の総本山である。もうひとつの密教、弘法大師空海が開いた真言宗の総本山・高野山には2度行ったが、そこは普通の人々も暮らす町だった。しかし、ここ延暦寺は単に山の中に寺があるばかりである。寺関係しかない。以上、感想終わり。

 延暦寺のメインの建物である根本中堂で、他の観光客に混じって坊主の説明を聞いたり(さすがに大きなお堂の中は涼しい)、歩いていると鐘の音が始終鳴っているから、何でずっと鳴っているんだろう? と鐘楼へ行ったら、「ひと突き50円」というトコロテンみたいなことが書いてある札が置いてあって、人が列をなしている。もちろんぼくも鐘は突きました……と、寺へくれば誰でもやるようなことを一通りやったあと、土産物屋へ向かった。
 土産物屋で捜し物があって、じつはそれが比叡山にきた一番の理由だったのです。

 1年半ほど前まで、『むすび』というマクロビオティックの雑誌に『美味い朝めし。』という連載コラムを持っていた。毎回見開き2ページで、2年近く続いた。日本人の朝めしのアイテム――めし・味噌汁・漬物――をベースに、それらがどう食べられてきたかを考察することで、日本人の食文化を探ろうというものだったが、「漬物編」ではどうしてもたくあんのことを避けては通れない。
延暦寺のシンボル根本中堂 そこで資料に当たっていたら、司馬遼太郎が『街道を行く〜叡山の道』の中で、その発案者について「比叡山の元山大師」と書いていた。その名称も、大師の住房にちなみ「定心房」(じょうしんぼう)だということも。そして、比叡山の坊さんたちがたくあんを食べていたとすれば、「貧」と言いつつ、けっこう贅沢だったじゃないの――と言っていたのだった。
 なぜ“贅沢”かと言えば、たくあんは大根を米糠と塩とで漬ける。米糠は精米することによって出る。つまり、比叡山の坊さんたちは精米した米を食べていた、ということになるからだ。

 本当か? と思った。というのも元山大師は平安期の人であり、調べた限りでは中国から精米器が渡ってくるのは室町期。また、たくあんが広まるのは都市部で精米を食べ始め、大量に米糠が出始めた江戸期だからだ。平安期と江戸期ではずいぶん時代が隔たっている。

 結論から言えば、ぼくが調べた限りでは「定心房」は大根漬けは大根漬けでも、糠ではなく稲藁と塩とで漬けるもので(やはり「貧」である)、似てはいるけれど「たくあん」とは違うものであり、コラムでは「司馬さんは取材不足だった」と書いたのだった。

 とはいえ、司馬さんは“叡山の道”を足で辿っているものの、ぼく自身はといえば比叡山には高校の修学旅行で行ったっきり訪れたことがなかった。かつウェブで検索していたら「『定心房』なる漬物を延暦寺の土産物屋で売っている」という情報を得ていた。
 これは一度訪れなければなるまい。そして、土産物として売られている「定心房」を手に入れ、食してみなければなるまい……と、ずっと思っていたのです。

これが土産物の「定心坊」 それで、根本中堂に近い土産物屋を覗いたら、ありました。しかも食べたら美味かったことは伝えておきたい。なぜ美味かったのかというと、しっかり日干しし、糠と塩で漬け、ウコンで色を付けた、近ごろめったにお目にかからない昔ながらのたくあんだったからだ。

 下山の間際、小腹が空いたので、土産物屋の中にある蕎麦屋へ行った。どうせなら、もう一汗かいてやろうと、熱いきつね蕎麦を食べたのだが……もう汗なんか出ないでやんの。



(19:19)