April 2005

April 29, 2005

 ジャッキー・チェンの映画を初めて観たのは、日本での公開順でいえば『ドランクモンキー・酔拳』に続く『スネーキーモンキー・蛇拳』(製作でいえばこちらのほうが先)で、いつだったか調べてみたら1979年のことだった。

 以降、おおむね公開のたびに観てはいたのだが、『プロジェクトA』(日本公開は1984年)とそれに続く『ポリスストーリー・香港国際警察』で、ジャッキー・チェンという俳優というか映画人の本領に驚かされて以降は見逃したことがない(『プロジェクトA』は一般試写会で観たのだけれど、NG集が披露されるエンドロールが出たとたん、会場では大拍手が巻き起こったものだ。エンドロールで観客から拍手が起こったという経験はもう1回あって、『ダイハード』です)。
 
80デイズ というわけで、『80デイズ』(原題:AROUND THE WORLD IN 80 DAYS)ももちろん観た。タイトルからわかるように、ジュール・ヴェルヌの小説の映画化だ。
 この物語の映画化としては、アカデミー賞作品賞に輝いたデヴィッド・ニヴン主演の邦題『80日間世界一周』(1956)がよく知られており、もちろん公開時ではないけれど、ぼくも観ている。
 このデヴッド・ニヴン版は、日本人には目よりむしろ耳に親しいのではないかと思うね。というのも、日本人の海外への夢をおおいに煽ったテレビ番組『兼高かおる世界の旅』のテーマ曲がこの映画の主題曲だったからで、おかげで、日本人はこの曲が流れると、「ああ、海外旅行ね」とパブロフの犬のごとくイメージが湧くようになってしまい、いまだにテレビ番組で“海外旅行”というと、この曲がよく使われる(ちなみに、調べたら『兼高かおる…』のスタートは昭和34年だが、何と平成2年まで続いていた)。
 
 時代は19世紀後半、まだ飛行機などないビクトリア朝時代のイギリス。ミスター・フォッグなる偏屈な貴族が、80日で世界1周できるかどうか社交サロンの仲間と賭けをし、雇ったばかりのフランス人の執事パスパルトゥとともに旅に出る。果たして賭けに勝つことができるのか――という冒険譚である。この物語を、ミスター・フォッグがやや偏執狂的な発明家であり、なおかつ主役を執事にして再映画化(なのか再々映画化なのか、はたまた再々々映画化なのかは知らないが)したのが『80デイズ』で、当然この執事がジャッキー・チェン。ただし、名前は原作同様「パスパルトゥ」で、中国人の主人公がそう名乗るいきさつのつくりはうまい。
 
 さらに本作は原作をなぞりながらも、中国人のジャッキーが早く故郷に帰らなくてはならぬ重要な事情があり、そのためにミスター・フォッグの従者になって世界一周計画を利用する、というサイド・ストーリーを用意して展開していく……のだが、本稿の主題はじつはここからなのです。
 
 この映画のサプライズ(売り)は、ワン・エピソードにアーノルド・シュワルツェネッガーが出ていたりすることだろうが、ぼくにとってのサプライズは、ジャッキーがうまく故郷に帰ることができたそのシーンで、サモ・ハン・キンポーが登場したことだ(ウェブの公式サイトにもそんな話は出ていなかったぞ)。

 何のことかわからない人には見終わってもわからないままだろうが(わかっている人にはネタばらしになってしまうのだけれど)、その役名がウォン・フェイ・ホン(黄飛鴻)であり、サモ・ハンの登場シーンに、あの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ』のテーマ曲「男兒當自強」が流れるのだ。
 そこで思わずムフフフと喜んでしまったし、それだけでも、ぼくにとってこの映画は面白かったといっていい。
 
 この『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ』(略してワン・チャイ)とか、黄飛鴻についてはまた書きたいと思うけれども、ひとつ明かしておけば、ジャッキー・チェンの出世作『酔拳』の主人公が、この黄飛鴻である。
     


(07:08)

April 24, 2005

グリコ R・スコット監督作品『ブラック・レイン』(1989)は、日本では概ね松田優作のハリウッドデビューであると同時に遺作ともなった映画として語られるが、もうひとつ記憶されておいていいことがある。それは「グリコ」マークのハリウッド銀幕デビューだ。

 ……かどうかはじつは断言できないのだが(笑)、同監督の代表作『ブレードランナー』的世界を彷彿とさせる怪しげなOSAKAの夜に、ミナミは道頓堀河岸に眩しく輝くあの“一粒300米”のネオンボードが映し出されたときには、おかしさを通り越して、妙な感動を覚えてしまった。
   いや、彼にとっては単に面白い画像というだけだったのかもしれないが、「ウン、これはまぎれもなく日本のマークだ」と首肯いてしまったのだ。

 それは、ぼくやアナタの子ども時代から身近にあり、遠足などのお供としてなじみ深いマークだったから、ということだけにはたぶんとどまらない。
 ひとつは、あのマーク(「ランニングマーク」という)をまとった赤い箱のキャラメル『グリコ』の登場は何と大正10年(1921)。爾来80年を超える時空を生きて今日に至る、いわば日本の近代菓子の代表と呼べる存在であること。もうひとつは、その出自において込められた日本の子どもたちに対する愛ではなかろうか、と思うのだ。

「グリコ」という名称がグリコーゲンからきているのはよく知られている。
 薬種業だった創業者が郷里・有明海の牡蠣の成分から思いついたとされるが、このエネルギー代謝に重要な栄養素を、まだ大いに貧しく栄養不足だった時代の日本の子どもたちに、と考案されたのがキャラメルに仕立てた文化的滋養菓子『グリコ』であり、商品と栄養価をアピールするために考案されたのが、「1粒300メートル」のキャッチフレーズとあのマークだった。
 
 一方、「グリコ」といえばオマケ付き菓子の代名詞でもあるが、「グリコ」に豆玩具が入れられるようになったのは6年後の昭和2年(1927)。翌々年からは早くもオリジナルのそれをつくり始めている。
 しかし、そのコンセプトはいまのように販促品、つまり“売らんかな”の気持ちからではなかった。「子どもたちにとって、食べることと遊ぶことは二大天職」ということから、食べることで健康なからだを、玩具によって子どもたちの知識と情操を育もうと考えたのだという。
 
 
 今日「食玩」などと呼ばれ、菓子が主かオマケが主かわからないものがブームとやらで数多く出回っているが、そのどこにグリコや、グリコのオマケに込められたような思いがあるのか。いや、いまの時代、そんな思いで世に送り出される商品がどれほどあるのか……「チョコエッグ」と言ったっけ? あんなもンに群がるオバカな日本人の姿を見るにつけ、そんなことを思わずにはいられない。

 
(『P's ANIMO』誌 2003.SUMMER号掲載分に一部加筆)


(06:12)

 ぼくの名刺の肩書きは、「エディター」となっている。

 もうずいぶん以前のことだが、飛行機に乗ると前の席の背の網ポケットに突っ込んであるいわゆる機内誌の仕事で広島に行き、当地の観光協会の人と名刺交換した。「広島」特集であったので、いろいろ教えを請うたり便宜を図ってもらうためだ。
 その相手がぼくの名刺を見て言った。
「このエディターいうんは、どういうお仕事ですか? 最近はカタカナの肩書きが多くて、自分らようわからんのです」
 その人の名刺には「観光プロデューサー」とあった。

 ……えー、そういう話をするつもりではありませんでした。
 ぼくの肩書きは「エディター」の前に“フリーの”という枕詞がつく。アンケートなどで職種を問われると、仕方がなく“自由業”というところにマルをつけたりするが、自由業とは気ままなようで聞こえがいいけれど、いわば潜在失業者だと言っていい。タクシーのように街を流していれば、誰かが手を挙げて仕事を依頼してくれるというようなものではなく、編集者などからお声がかかってお仕事がいただけるか、かからなければ自分で企画などを売り込みに行き、それが仕事として成り立って(この場合、成り立つかどうかが、まず大問題である)、かつその仕事をやりのけて、ようやくいくばくかのお金をいただくことができる。

 ……えー、そういう話をするつもりもありませんでした。
 ともあれ、そうした肩書きでここ7〜8年ほどは自宅で仕事をしている。とくに、ここ2〜3年は仕事が変わってきたこともあって、自宅にいることが多い。
 そのせいなのか、今日が何月何日で、ということがわからなかったりする。テレビ番組を見て、「あれ? 昨日見たんじゃなかったっけ」と思うことがよくある。つまり、もう1週間経っているのに、その感覚がないのです。
 過去の記憶も怪しくなってきた。つい、この間のことだと思っていたことが、半年ぐらい前だったりする。

 そのひとつが以下の話で、ぼくは2月頃のことだと思っていたのだが、ヘルプしてくれたAさんにあらためて確かめたら、「去年だよ。秋じゃない?」というから、もう半年ぐらい前の話だ。

 その日の夜、新宿で人と会う約束があり、ならばその前に犬の散歩をすませておこうと、庭に降りてつないでいるリードを外し、散歩用のそれに付け替えようとした、その“アッ”という間の隙をついて、犬が猛ダッシュしたのがそもそもそだった。
 雨だったか、こっちの都合だったかはもう憶えていないけれども、2日ばかり散歩に連れて行けなくて、犬にしてみれば、「オッ、やっと行けるぞ」という興奮気分もあったのだろうね、当人(というか当犬)はリードが付け替えられたつもりであったのか、ともあれ飛び出すように走り出したのだが、もはや夜のとばりがとっぷりと降り、しかもわが家のまわりは街灯も少なくて、暗く、畑が多い。かつ犬の毛は黒で、夜の闇の畑に紛れ込んだら、これはもう見つけようがない。

 30分ほどは探し回ったのだけれど見つからないし、約束の時間は迫るしで、「いいや。犬のことだから、どうせ少し遊んだら帰ってくるだろう」(そういうことがいままで何度かあったから)と思い、新宿まで出かけ、人と会い、酒を飲んで、ぼくが家に帰ってきたのは夜中の1時半。ところが犬はいない。
 では、朝になったら帰るであろうと寝てしまい、朝10時頃だったけれども、犬小屋を見ると、やっぱり帰っていない。

 さあ、すっかりMissing Dog(どこかへ行っちゃってわからない犬)だ。
 こうした場合、あなたならどうするか? というのが本日のお題なのです。

 ぼくは、やや二日酔い気味の頭で、帰ってこない理由について、3つの可能性を考えた。
(欸鮟蠅吠甞佑気譴
▲ルマに轢かれた
ボケがあるので帰れない

 に関してはあきらめた。どうしようもないもの。
 △蓮動物の遺体の処理については付近の住民からの通報などで回収してくれるだろうから、市役所のゴミ収集係などというところに何らかの記録が残っているかもしれない、と思った。
 そこで、まず△硫椎柔も含めて、市の保健所に電話してみたところ……。

「いま、犬の捕獲・保護を行っているのは保健所ではなくて、東京都は東京都福祉保険局管轄の『動物愛護相談センター』の担当になっていて、お宅様のお住まいで行けば、担当支所は日野ではないですか? ちなみに『ゴミ収集係』とか『ゴミ収集課』というのはなくて、いまは『リサイクル課』になっています」
 死んだ犬をどうリサイクルしてくれるというのだろう?

 というわけで、日野の東京都動物愛護相談センター、正しくは、「東京都動物愛護相談センター 多摩東支所」に電話してみたら……ビンゴ! それも電話で確認できてしまった。特徴を言ったら、
「ああ、お預かりしている犬だと思いますよ。首輪が迷彩のやつですね」
 迷彩? と一瞬考えたが、犬の首輪は合成樹脂製のグリーンで、ずっと使っているから色落ちと汚れで迷彩色に見えるのかもしれない。
「昨夜のいまですから、まだアップされていないかもしれませんが、ホームページに写真も出るので、そっちでも確認できます」
 たしかに、いまだ写真は出ていなかったが、特徴等からわが家の犬に違いないと思われた。しかも、ダッシュから2時間後に、わが家から100メートルも行かないところで捕まっていた。あと1時間もしたら、家に戻ってきていたかもしれないのに――。

 引き取りには、鑑札をもってこい。それに預かり賃等がかかるという。鑑札なんて、もう10年以上前に取ったものだから、どこへ行ったかわからない。そういうと、「役所で飼い主と犬の名前を言って再発行してもらえ」という。
 それより困ったのは、引き取り方法だ。というのも、ぼくは運転しない(できない)からクルマがない。まさか、日野まで行ってボケが入っている老犬と一緒に歩いて帰るわけにもいかない。
 そこで、平日の昼間で、クルマを持っていて、ヘルプしてくれそうな人――ということで、前述のAさんに電話したわけだ。Aさんは新宿の、ぼくの行きつけのバーのマスターで、アウトドアが好きだから、4WDを持っている。

センターのHPにアップされていた愛犬の写真 Aさんに犬の運搬のお願いを取り付け、日野のセンターには鑑札の再取得その他時間が必要だから、もう1泊の保護をお願いし、翌日、何とか無事連れて帰ることができた。費用としては、鑑札の再発行代、2泊のお泊まり賃を含めて8000円あまりかかったか。
  で、連れて帰る前の日の夕方に、ホームページにアップされていたのが、この写真だ。年を取っているせいもあるし、脅えてもいるのだろう。何やら古雑巾のようである。

 

 犬・猫がいなくなった人は、まず以下のページを見られたらよろしい。保護されているかもしれませんし、保護動物の検索もできます。

http://www.fukushihoken.metro.tokyo.jp/douso/index.html

 引き取りに行ったとき、老夫婦が何やら相談にきていた。聞くともなしに聞いていたら、2人とも高齢でもはや犬の世話ができぬので何とかしてほしい、ということのようだった。「何とかして」というのは、引き取って処分を、という意味である。
 ここは、そういう悲しい相談にも応じているのだ。



(04:10)

April 16, 2005

 高田渡が死んだ。
 夕刊を広げたら、写真入りで載っていた。
 
 今月3日、ライブに出向いた先の北海道・釧路で具合が悪くなり、コンサートでは『生活の柄(がら)』――高田渡の1曲ということになれば、やはりこれでしょうね――をはじめ15曲も演ったそうだが、翌朝救急車で運ばれて入院、意識が戻らないまま今日(16日)未明に亡くなったそうだ。死因は髄膜脳炎。一見、とてもそんなに若いとは見えないのだが、まだ56歳だった。
 ピンポイント・ライブでの高田渡
 久々に高田渡のライブを見たのは、綾戸智絵ファンクラブ代表であり、毎日毎日ウェブに「万歩計日和」という日記(リンク参照)を書き綴っている友人・Iさんが主催した「Pinpoint Live」(at下北沢)で、いつのことだったか、サイトにアクセスし、キーワード「高田渡」を打ち込んでバックナンバーで調べてみたら、ついこの間だと思っていたのに、一昨年(03年)9月だった。

“久々”とはどれぐらいぶりかというと、たぶん70年代以来ではなかろうかと思う。
 あの頃は「フォーク」の時代であり、ぼく自身フォーク少年であったから、あちこちのフォーク・コンサートでよく見た……というかナマで聴いた。五つの赤い風船とのカップリングで発売されたデビューアルバム(両者ともライブである)を持っていた。加川良・岩井宏とのトリオで演るのが好きだった。ジャグバンド・スタイルの武蔵野タンポポ団も楽しかったし、吉祥寺「ぐわらん堂」でのライブにも足を運んだ。その頃から、すでにして老人の趣があった。

 だから、本当はフォーク嫌いらしいIさんから「ウチのライブで高田渡をやろうと思っているんだけど」と聞いたとき、「いいね、やろうよ、やろうよ」と大賛成した。
 ところが、そのライブの日は、ちょっと出遅れたところに、運悪くJR中央線が事故かなにかで止まっており、ぼくが会場に着いたのはひとステージ終わって、休憩に入ったばかり。Pinpoint Liveには美味い酒が用意してあり、高田選手はと見ると、隅のテーブルですでにグイグイ飲っている。
 大丈夫かいな? とちょっと心配したのだが、案の定、2回目のステージではヨレヨレ。歌を歌うより、もはや呂律が怪しい口で喋っている時間が長い。せめて『生活の柄』だけは聞きたいと、Iさんにもうやったかどうかをこっそり訊ねたら、「リハではやったけど、本番はまだ」だと言うから、挙手してリクエストしたら、高田選手は「いいよ。でも、その前に1曲」と別の歌を歌い、それで力つきたのか本日のステージは終わり……って、おいおい、忘れてるじゃないか(笑)。
 ま、若い頃から、楽屋で飲み過ぎて、ステージでゲロしてしまったというような伝説には事欠かない人だったから、らしいっていえばらしいのだけれども。
 
 というわけで、その“久々”のナマ『生活の柄』を聞くことができなかったのが、いまとなっては残念だ。
 合掌。
 
(写真はそのライブ。『万歩計日和』より拝借。撮影:幡野好正)
※「生活の柄」はアルバム『ごあいさつ』(キングレコード)に入っている。


(23:21)

April 13, 2005

芹沢俊介・高岡健著『殺し殺されることの彼方 少年犯罪ダイアローグ』
 
殺し 街を歩いていたり電車に乗ったりしていて、ふとまわりの見知らぬ人々の中から放射される理由なき(だって知らない人なんだもん)悪意、あるいは憎悪みたいなものを最初に感じたのはいつだっただろうか。千葉に住んでいた頃だから、10年以上前であることはたしかだ。本書の著者の一人である芹沢俊介さんに初めてお会いしたのは本誌の取材でだったが、その折りに、その"嫌な感じ"を話したら、「僕もひどく感じます」と共感していただいたことを憶えている。
 
 のち(本書でも指摘されているが)、某書で「1995年がターニングポイント」という指摘を目にし、ああこれなのだ……と腑に落ちた。1995年とは阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件の年である。
 そう、ぼくたちは"あれ以降"の時代を生きている。したがって、"あれ以前"の目からすれば特異に見える少年事件の数々も、またそういう時代の中で起きているということから捉え、見なければならないと思う。
 
 本書は、少年問題に深い関心を寄せる評論家(芹沢氏)と精神科医(高橋氏)が、佐世保同級生殺害事件、長崎園児殺害事件、大阪池田小学校事件など近年起きた「不幸にも少年が加害者にならざるをえなかった事件と、不幸にも少年が被害者になってしまった事件」(高橋氏のあとがきより)について、往復書簡と対話によって語り合うことで特異に見える個別の事件が内包する普遍性を見いだそうとし、さらにそれら事件を通して時代状況を照射しようとする試みである。

 「孤立化とぬぐいがたいくらいに深い相互不信」――芹沢さんは、これが今の社会を覆っている“気分”だと書いている。
 本書で取り上げられた事件はもとより、特異に見える近年の事件のある部分は、そうした“気分”の中から生まれてきた"憎悪のひとつのかたち"なのだと思う。
 
東海教育研究所 月刊『望星』2005年1月号所載                

 


(06:02)

April 11, 2005

「ラジオ」をテーマに何か書けと言われて書いたのが以下の一文だ。
 いま渦中のニッポン放送社長だって、まだディレクターであり、自ら深夜放送のパーソナリティーをやっいてた。若者とラジオというメディアの蜜月時代だった、と言っていい。
 書いていると、あの頃がまざまざとよみがえってきた。そう、好きだったあの娘の面影まで……。

ボクのラヂオ・デイズ
 
帰ってきた フォーク・クルセダーズ『帰って来たヨッパライ』の大ヒットをきっかけに、70年安保や大学闘争という時代状況も相まって、フォークソングが音楽の領域のみならず、社会的なムーブメントになりつつあった。東京の新宿西口広場では毎土曜の夜にフォーク集会が開かれて岡林信康の『友よ』の大合唱が巻き起こり、九州・熊本では一人の高校生(僕のことです)が、自分もフォーク少年たらんと新聞配達で貯めた小遣いで安いガットギターを購い、受験勉強そっちのけで、ちっともきれいな和音になってくれないFコードに四苦八苦していた。そんな時代――。
 
 次々と送り出されてくるフォークの新譜は、まず“若者の解放区”などといわれたニッポン放送『オールナイト・ニッポン』、TBS『パック・イン・ミュージック』、文化放送『セイ!ヤング』などのラジオの深夜番組から流れてきた(その次が『新譜ジャーナル』とか『ガッツ』だとかいう雑誌でしたね)。だからその少年も毎晩、勉強机の端に置いたオンボロなラジオにかじりつくようにして、新しい歌に胸躍らせて……はいなかった。それどころか、ラジオの前で悶えていた。
 
 よく聞こえないんだよね。
 夜中12時過ぎまでは地元の放送局のラジオ番組が電波空間を独占しているから、いずれにしてもその後のことなのだが、明瞭に聞こえてくるのは海をはさんだ半島や中国語の放送で、こっちが聴きたいものは、その隙間から漏れるがごとく、かすかに細々としか入ってこないのだ。
 少年は悶えながらも思案した。どうにかしてもっとよく聞こえるようにならないか? そうだ、アンテナを立てればいいかも知れない! そこでその手のことに器用な学友に相談し(ぼくはその方面がまったくダメなのです)、古いコウモリ傘から布地や骨を外してアンテナ様にし、こいつを軒先に取り付けてアンテナ線でラジオと結んでみた。
 いやあ、この目論見は見事に当たりました。『オールナイト…』だって『パック…』だってよく入るのだ。もちろんモコ・ビーバー・オリーブの『パンチ・パンチ・パンチ』だって。といっても遠くからやってくる電波だから、ときおり気が遠のくようにスーッと音が消えかかったり、また戻ってきたりというのはあったものの、悶えていたことを思えば、聞こえるだけで田舎のフォーク少年は大満足だった。
 
 アンドレ・カンドレというヘンな名前の新人フォーク歌手が歌う『カンドレ・マンドレ』なるヘンな歌を聴いたのも、そのオンボロラジオからだった。案の定、ほとんど人口に膾炙しなかったけれども、彼はのち芸名を本名に戻してから、あれよあれよという間にフォーク界のスターになっていった。
 その本名は、井上陽水というのだった。
 
東海教育研究所 月刊『望星』特集「新・ラジオの魅力」2004年3月号所載


(03:28)

April 09, 2005

養老孟司・玄侑宗久著『脳と魂』
 
脳と魂「我思う。故に我在り」というのは、まさに首から上だけで世界を捉えようとしてきた近代を象徴していると思う。しかし、それだけでは間尺に合わなくなってきた、説明つかなくなってきた、というのが、このところの時代の流れで、本書をひとことで言えば、そういう近代的物言いではいまのところ説明つかないことについて、人間のアタマの限界を「バカの壁」と命名して説いた脳科学者と、霊だの死後の世界だのといったこれこそ近代的論理では割り切れない物語で芥川賞を受賞した禅僧が語り合ったもの――と、ちっとも説明になっていないか(笑)。
 
 というわけでもあるまいが、対談の話題はアタマではなくカラダ、昨今流行りの身体論から始まるのだが(私見だが、今日の身体論ブームのきっかけは養老氏が古武道家・甲野善紀と対談した『古武術の発見〜日本人にとって「身体」とは何か』1993だと思っている)、何かを論理的に突き詰めようというのではないから――というか、論理的に突き詰められない話だから――話は「あのとき、こんなことがあって、こうだった」というような、ごくごく具体的にならざるを得ない。
 しかも、突き詰めていこうとしているわけではないから、展開も縦横無尽……というより、あっちへ飛び、こっちへ渡り。ひとつの話が次の話を呼び、間の手で入れた茶々から話題がまた転換していく。その展開の流れが目次の「観念と身体」「都市と自然」「世間と個人」そして「脳と魂」という順なのだろう。
 
 いわば、大いなる雑談と言っていいと思うが、養老先生が博覧強記なのはよく知られているけれど、玄侑氏も負けてはいないから、その雑談の中身がとても濃い。教養のない身には何のことだかかわからない話も多かったが、次から次へと展開する話のスピードに乗せられて、ついに読破してしまった。
 オルタナティブなものの見方・考え方に興味・関心のある人には、とてもエキサイティングな対談だと思う――と、やっぱり説明になっていないか。
 
東海教育研究所 月刊『望星』2005年4月号所載

 
追記:その後、編集部から以下のようなメールが転送されてきた。
 
「望星」4月号のBOOKS
麻生タオ氏の『脳と魂』の書評の転載をご承諾いただきたいと存じます。
すみませんが、HPにてすでにUPしております。
誠に申し訳ございませんが、
よろしくお願い申し上げます。
 
http://www.genyusokyu.com
 
 何と玄侑さんのサイトからだ。へえ、そんなに面白かったのか(ぼくとしては、何せ“大雑談”だから書きようがなく、こんな始末になってしまったのだった)と思ったのだが、サイトを見てみると、何のことはない、メディアに出た書評はすべて網羅されていたのでした(笑)。
 


(23:19)
 
f5cb223c.jpg いきなり咲き誇って、天気予報では「明後日からは雨ですから、満開が楽しめるのは明日だけでしょう」だそうだ。
 もちろん桜の話だが、おいおい、それじゃ花見の相談すらできゃしないじゃないの。
 
 花なんてもなぁ、通りすがりに芽がいまにも咲かんとばかりに脹らんでいるのを見つけ、それがいつ頃咲くのかを楽しみにし、だったら花見はいつやるのがベターか、友人・知人に声をかけるなどの仕掛けはいつから始めようか、今年はどんな酒肴を凝らそうか……などの思案をめぐらせたりするのが楽しいのだ。
 だから花見といっても、たとえば会社の誰かが「今夜、花見をやるぞー!」と突然言い出し、若いのを酒屋に走らせて用意した缶ビールとツマミ(だいたい若いのはキャリアがなく、したがって気が利かないから、カキのタネとかポテチとか、よくてイカクンなどのカワキモノばかりになってしまったりするのだ、これが)でもって、千鳥ヶ淵あたりの人通りの多いところに腰を下ろしてやるようなのは、基本的にごめんである。
 せめて1人1個あての幕の内弁当ぐらい買ってこいよー。
 
 今年の桜はせわしないし、風情のないことはなはだしい。だから、ドワッと咲き誇っていても、ちっとも愛でたいと思わない、というか思わせる儚さがない。
 
 とはいえ、ここ何年かの花見のパターンはこうだった。
 そろそろかと思うと、同じメディアで仕事をしていた年下の友人K(これがまた酒を飲むのが好きなのだ)に声をかけ、あと一人か二人女友達なんぞを呼び出して――男2人じゃ殺風景だもの――夕方、JR市ヶ谷駅前で待ち合わせる。その際、酒肴は用意しない。飲みたい者がいれば自分で缶ビールなり、缶チューハイなり好きなものを購入する。ぼくの場合は、スキットルにバーボンを移して持参する。飲みたければ飲むし、そうでなければそのままバッグの中だ。
 そうして、市ヶ谷土手の桜並木を見ながら、ゆっくり歩く。並木に沿うようにして、花の下ではすでに列をなして酒宴が始まっている。まだ時間が早いというのに、もう首のネクタイを外し、鉢巻き代わりに頭に巻いているような気乗り十分のサラリーマンも少なくない。そうした輩も花見のオカズであるから、「おうおう、楽しんでますねえ」というような視線を投げかけながら、花見を楽しむ。
 やがて、土手のひとつの区切りまでくると、そこは飯田橋駅の新宿寄り出口だ。つまり、総武線ひと駅分を歩いたことになるわけだが、そこで土手を降り――つまり花見もここまで――左折して牛込橋を渡り、外堀通りを越えると神楽坂ののぼり口に至る。
 そこから神楽坂界隈で適当な店を見つけて入り、酒肴を頼んで、酒と談笑を楽しむ――というものだ。
 
 ところが今年はKがいない。
 昨夏、体調が悪いと病院で検査したら(と、ここまでも長いいきさつがあるのだけれど)がんが見つかり、その段階で4期と診断されたものの、手術や免疫療法を経たのちに、以来ずっと“病院”という場所からは一度も出られないまま――転院は2度して現在は埼玉・川越の帯津先生の病院にお世話になっているが――いまも踏ん張って闘病中だからだ。
 Kもいない。花も風情がない。
 こんな年に花見をやる意味はない。


(22:47)

April 07, 2005

89733912.JPG
 肩はナチュラルショルダーで、シルエットは寸胴。
 フロントはシングルブレスト3つボタン段返りで中1つ掛け、ボタンはメタルの金ボタン。
 胸はパッチポケット、脇はパッチ&フラップポケット。
 バックはセンターベントでフックベント。
 
 ――と、この一文を読んですぐにわかるアナタは、その昔、「VAN」に憧れ、「メンクラ」(雑誌『MEN'S CLUB』婦人画報社刊/現・アシェット婦人画報社)を教科書に「アイビーとは何ぞや」ということをお勉強した一人に違いない。そして、「素材はフラノ、カラーはやっぱりネイビーかキャメルが基本だぜ」などと友達に蘊蓄を垂れたりしたこともあったはずだ。

「VAN」「アイビー」をご存じない方のために言っておけば、冒頭の一文はアイビースタイルのブレザー仕様で、アイビーは60年代から70年代にかけて若者たちに大流行したファッションスタイル。そして、その流行を生み出したブランドがVAN(ヴァン)で、当時はそのロゴマークの入った紙袋を小脇に抱えるだけでもカッコよかったほどだった。
“若者たちに大流行”と書いたけれども、VANに比べたら今日びのファッション流行なんて目じゃない。VANはファッションを中心に置いて遊びからカルチャーまで、つまりライフスタイル全般に影響を与えたのだから。

  しかし、それもそのはず。生みの親、石津謙介は単にアメリカン・ファッションを提供しようとしたのではなかった。終戦直後に出会った一人の米軍中尉から聞いた、アメリカのアイビー・リーグ(アメリカ東部の名門8大学で組織するアメリカンフットボールリーグ)が持つ“ファッション哲学”を戦後の若者たちに提供しようとしたのだから。
 流行に左右されることなく長く着ることのできるもの。そしてプライドやプレステージなど、着る者に何か満足を与えてくれるような、ひとつのファッション体系――それを目指したのがVANだった。
 
 ブランド名の意味は、前衛、先陣、先駆、先導者。
 ブランド自体が生まれたのは昭和26年(1951)。そのブランドからアイビーファッションが世に送り出されたのは同32年(1957)。雑誌『MEN'S CLUB』が教科書になったのも当たり前で、石津は編集顧問だった。ちなみに、当時誌上でモデルをつとめた一人に菅原文太がいる。
 
 大ブレイクするのは、いわゆる団塊の世代第1陣が高校生になった39年。それをさらに後押ししたのが同年に創刊された『平凡パンチ』(平凡出版刊。現・マガジンハウス)という若者向けカルチャー&風俗雑誌だった。
 この年はまた東京オリンピックが開催された年でもあった。時代は復興期を終えて高度経済成長期に突入していた。
 そしてVANと『平凡パンチ』の登場以降、ニッポンは若者中心文化の社会になっていく――。
 
『P's ANIMO』2003年秋号掲載分に一部加筆
 
※追記:2005年5月24日、アイビー・ファッションの生みの親、石津謙介氏死去。享年93。大往生である。


(03:55)

April 06, 2005

 いまいる町に住み始めて、10年を超えてしまった。

 いまの住処を決めた理由は、あまり多くない。一軒家で庭で犬が飼えること、周囲に緑が多いことぐらいだった。3年半ほど前までは犬が2匹おり、犬小屋2つを置くだけのスペースが必要だったことと、ほぼ日課の犬の散歩に、やはり緑が多い風景のほうがこちらとしても気分がいいからだ(それ以前にいたところはもともと埋め立て地で、公園か申し訳程度の街路樹ぐらいしか樹木はなかった)。散歩については、犬の足で10分ほどのところに多摩湖自転車道というのがあり、桜並木になっていて、ちょうどこれからの短い時期、咲き始めから満開、そして散りゆくまでの桜花が目を楽しませてくれる。
 あと、付け加えるとしたら都心までそれほど遠くないということぐらいだろうか。最寄り駅から新宿まで、急行なら20分余でたどり着く。

 それ以外は特筆するようなことのない町で、この10年の変化といえば、駅舎が新しくなったこと、3軒あったレンタルビデオショップが全滅したこと(おかげで新宿TSUTAYAまで借りに行かねばならぬ)、そして飼っていた犬の1匹が13歳半で死んだこと……ぐらいか。何と残った犬は死んだ犬と同年齢なので、今年17歳になる。呆けてきて、夜、鳴き声を上げる。昔、子犬のときにクルマに轢かれたときの後遺症がいまになって出てきたのか、右の後ろ足が悪くなって踏ん張りがきかず、トボトボとしか歩けなくなってしまった。
 そして、犬が老いた分、ワタシも老いる。


 ……いや、そんなしんみりした話を書くつもりじゃなかった。
 この4月、ひとつの変化があった、という話だ。
 それは新しいスーパーの進出で、これまで駅前のスーパーといえば、商店街のある北口に沿線の鉄道と関係のあるSと、ほとんど何もない南口に食品スーパーPがあるだけだったところに、“駅前再開発”ということで、Sが君臨していた北口の高校移転跡地に新たにIというスーパーが進出してきたのです。
 何にせよ、競合相手が出てきたということは、住民としてはありがたいことだと、その新しいスーパーを覗いたら――既存店舗ではやっているのかもしれないが――ちょっとユニークなサービスをやっていた。逆浸透膜で濾過したピュア・ウォーターを無料提供するというんです。
 そのサービスを利用するには登録が必要だというから、もちろんすぐにぼくも登録しました。まず入会申込書に住所・氏名・電話番号を書いて渡すと、水利用のためだけのプラスティックの会員タダでもらえる水証と、専用ボトルをくれる、というか売ってくれる。1個4リットル入りで504円のところをいまなら半額だ。
 それを持って店舗の一角に置いてある給水器コーナーに行き、まず会員証を機械に通す。すると給水が受けられる部分の扉が開くから、そこにボトルを置いてボタンを押すと、ボトルいっぱいのピュア・ウォーターが注がれる――というもの。

 この水について、説明書にはこうある。
「……水中の不純物をほぼ完全な形で取り除いて出来るお水です。逆浸透膜は、身体に有害な物質は除去しますが、水を円やかにする炭酸ガスや酸素は残るため、身体に大変優しいのが特徴です。お茶、コーヒー、水割り、炊飯、赤ちゃんミルク、氷、ミストウォーターと用途は多彩です」

 これは顧客サービスおよびリピーターの獲得として、かなりのグッドアイデアではないかと思うね。生活用水のうち、飲用分についてはミネラルウォーターを金を出して買っている人も少なくないでしょう? ぼくの場合は蛇口取り付け型の浄水器+備長炭でまかなってきていたのだけれども、ミネラルウォーターではないにせよ(ピュア・ウォーターということは、ミネラル分もほとんど除去してしまう)、良質な水がタダで手に入るのだから。

 というわけで、その4リットルの水をありがたくいただいて帰ったわけだが、帰りつつ、ふと心配にもなった。水4リットルといえば4キロでかなり重い。そのスーパーは駅の真ん前だから、客の大半は徒歩か自転車だ。水をもらうのにスーパーに来るのはよいけれど、4キロの水を手にしたら、重くて買い物はそこそこにすますのではないかしら。
 いや、実際、その日ぼくもいくつか買い物の予定があったけれども、テレコや資料やら仕事道具を入れたリュックを背負っていたせいもあって、水の重さに何も買わずに帰ってきたからで……そのあたり、I社の社内評価はどうなっておるのか、気になっている。



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