September 01, 2009

がんのホリスティック・アプローチで知られる帯津良一先生の知己を得たのは、もう20年以上昔。ぼくが初めて太極拳――揚名時太極拳だった――を教えてもらった先生から太極拳の本作りを頼まれ、共著者が帯津先生だったのだ。
当時、先生は世間的にはまだほとんど無名で、「病院で太極拳を教えている医者がいる」ということだけで先生にお会いし、呼吸や動作の意味についての原稿をいただき、残りはぼくがでっち上げてつくった(この本は、何といまでも市場にある。読むなよ)。
その後も、いろんなことで帯津先生とはお付き合いがあり、その中で、ぼくの従兄弟が帯津先生と高校時代の同級生であり、現在も川越の帯津三敬病院で定期検診を受けたり、漢方薬を調合してもらったりしていることがわかって驚いたこともあったりしたが、なぜか先生の本をつくる機会というのはなかった(メディアに頼まれて雑誌記事を書いたりすることはあったけれども)。
だから、いつか1冊つくりたいと思っていたのだが、ようやくそれが叶ったのが、
『こころ、からだ、魂に響く 帯津良一のホメオパシー療法』
という本だ。
帯津先生はこの10年ほどホメオパシーに強い関心を持って、がん治療に取り入れている。このテーマだけはぼくがやりたかったので、がんの雑誌の連載として毎月先生に会い、お話を聞いてまとめたものを12回連載し、それをベースに大幅に加筆して1冊にまとめた。
出版は、何社か断られたけれども、ホリスティック医学関係で知己のあったビイング・ネット・プレスの野村社長が引き受けてくれた。タイトルについては、ぼくは『私のホメオパシー』としたかったけれども、野村さんといろんな議論を重ねた末、上記のタイトルに落ち着いた。
その制作過程の中で、もう一つやりたいことがあった。
それは、カバーに宮迫千鶴さんの絵を使うことだった。宮迫さんは先生の理解者の一人であり、昨年亡くなったが、その最後も帯津三敬病院だった。
そして、ぼくの大好きな女性でもあった。
代替療法は女性性の強いものであり、ホメオパシーをイメージした時に、ふっと「宮迫さんの絵で行きたい」と思ったのだ。
だから、今回の本は、一見、帯津良一らしからぬ装丁になっている、と思う。
知り合って20余年。ぼくも老いたが、先生も70歳を越えた。いつ逝ってもおかしくない年齢で、間に合ってよかった(こらこら)。
本の詳細については
http://camunet.at.webry.info/200908/article_1.html
また、先生のホメオパシーの講演会もあります。
http://camunet.at.webry.info/200907/article_3.html
July 27, 2009
ひらひら ぱんつ
おふろあがりの えんがわで
かぜに ふかれて ひーらひら
とうさんの ぱんつも
ひらひら ぱんつ
おひるねどきの なつのごご
せんぷうきに そよいで ひーらひら
じいちゃんも とうさんも
ひらひらぱんつ
かあさんに なにかきいたらね
あれは「ふんどし」って いうんだって
ぼくの ぱんつは
ぴちぴちぱんつ
おしっこするのも うんちでも
いちど ぬがなきゃ できないの
じいちゃんは ぼくにこういうの
ふんどしは なんたってきもちいい
かぜがとおって すずしいし
おしっこするのも かんたんだ
とうさんも ぼくにこういうの
ふんどしが なんたっていちばんだ
おとこらしいし いさましい
はんかち なければ てもふける(こらこら)
じいちゃんと とうさんの
ふんどしは
ばあちゃんが つくった てづくりだ
ぬのに ひもをつけただけ(越中!)
ぼくも ほしいよ
ひらひら ぱんつ
ぼくも はきたい ふんどしを
そしたら ばあちゃん つくってくれた
ぼくのぱんつも ひらひらぱんつ
じいちゃん とうちゃんと
おそろいだ
ときどき ゆるんで
よこちょから
ちんちん かおだし ひーらひら
May 04, 2009
そのことについては何も言うことがないが、東京に出てきて最初に見たのがRCサクセションだから、ちょっと書いておきたい。
東京で高校生のフォークバンドがデビューしたのは、当時ぼくも田舎のフォーク少年だったので、ラジオで聞いて知っていた。それがRCで、『宝くじは買わない』『イエスタデイを歌って』という楽曲は聴いていた。しかし、レコードとライブは違うことを東京に出てきて思い知らされた。
場所は渋谷・公園通りのいまはなき「ジアンジアン」。当時はここと、すぐ近くの「青い森」(じつはこっちは行ったことがない)が東京フォークのメッカで、RCのほか古井戸とかデビュー前の五輪真弓などが歌っていた。
大学受験の時か、落っこちて東京出てきてからかもう憶えてはいないけれども、高校の一年先輩で「東京に出てきたら一緒にバンドをやろうね」と話していた彼に連れて行かれたのが「ジアンジアン」だった。
前座が五輪真弓で、ぼくたちは最前列の席で見ていたのだが、ジョニ・ミッチェルやキャロル・キングをギターの弾き語りで聴かせ、「やっぱ、東京はすごかばい」と大いに思わせてくれたのだが、残念ながら風邪でも引いていたのか、鼻水が止まらない。それを手で拭い、啜り上げながら歌っているのだが、ぼくらは最前列にいるのでよく見える。
以来、彼女はぼくらの間で“はな垂れ真弓”と呼ばれることになる。
メインがRCサクセションで、これには驚いた。アコースティックのフォークギター2本にウッドベースという構成なのに、その音の大きいこと。チャンチャラチャラチャラ、ギターをかき鳴らしているぼくらとは大違いの音量なのだ。だから、途中でギターの弦も切れる。すると、キヨシロー氏はジーンズの尻ポケットからおもむろに新しい弦を取り出し、「次のは『チューニング』という曲です」など言いながら、弦を張り替える。
あるいは首からホイッスルを紐で提げて、出ていこうとする客にホイッスルを鳴らして注意する……。
「東京のフォークシーンはすごかねえ」
と、つくずく思わされたことだった。
当時、「ジアンジアン」は月に1回、新人オーでションをやっていて、ぼくらも受け、優勝はダ・カーポという男女デュエットだったが、ぼくらも何とか合格者ライブとでもいうものに出ることができ、メインがRCだった。当日、楽屋でギターをチューニングしていると、バンダナを頭に巻いたキロシローがやってきて、ぼくが吸っていたタバコ「ハイライト」を見て「1本、いただけませんかね」と言ったので、もちろんあげた。
それからどれぐらい後のことだろう。
日比谷の野外音楽堂に上田正樹とサウス・トゥ・サウスを見に行った。
前座が古井戸のチャボを迎え、すでにロックバンドとなっていたRCだったのだが、演奏を始めるやいなや、場内総立ちで、メインの上田正樹はすっかりかすんでしまった。ぼくは、「何だ、楽曲はフォークバンドの頃からちっとも変わっていないじゃないか」と思いつつも、その勢いを感じざるには負えなかった。
それからまた何年か後。
雑誌をやっていたぼくは、新作アルバムについてキヨシローにインタビューしたいと事務所に申し込んだ。それは断られたのだが、その時のマネージャーの言葉がいまだに忘れられない。
「あいつの歌の世界は、いまだに高校生のままなんですよ」
キヨシローは同い年だと思っていたけれど、わずかに1学年上だった。