April 09, 2005

養老孟司・玄侑宗久著『脳と魂』
 
脳と魂「我思う。故に我在り」というのは、まさに首から上だけで世界を捉えようとしてきた近代を象徴していると思う。しかし、それだけでは間尺に合わなくなってきた、説明つかなくなってきた、というのが、このところの時代の流れで、本書をひとことで言えば、そういう近代的物言いではいまのところ説明つかないことについて、人間のアタマの限界を「バカの壁」と命名して説いた脳科学者と、霊だの死後の世界だのといったこれこそ近代的論理では割り切れない物語で芥川賞を受賞した禅僧が語り合ったもの――と、ちっとも説明になっていないか(笑)。
 
 というわけでもあるまいが、対談の話題はアタマではなくカラダ、昨今流行りの身体論から始まるのだが(私見だが、今日の身体論ブームのきっかけは養老氏が古武道家・甲野善紀と対談した『古武術の発見〜日本人にとって「身体」とは何か』1993だと思っている)、何かを論理的に突き詰めようというのではないから――というか、論理的に突き詰められない話だから――話は「あのとき、こんなことがあって、こうだった」というような、ごくごく具体的にならざるを得ない。
 しかも、突き詰めていこうとしているわけではないから、展開も縦横無尽……というより、あっちへ飛び、こっちへ渡り。ひとつの話が次の話を呼び、間の手で入れた茶々から話題がまた転換していく。その展開の流れが目次の「観念と身体」「都市と自然」「世間と個人」そして「脳と魂」という順なのだろう。
 
 いわば、大いなる雑談と言っていいと思うが、養老先生が博覧強記なのはよく知られているけれど、玄侑氏も負けてはいないから、その雑談の中身がとても濃い。教養のない身には何のことだかかわからない話も多かったが、次から次へと展開する話のスピードに乗せられて、ついに読破してしまった。
 オルタナティブなものの見方・考え方に興味・関心のある人には、とてもエキサイティングな対談だと思う――と、やっぱり説明になっていないか。
 
東海教育研究所 月刊『望星』2005年4月号所載

 
追記:その後、編集部から以下のようなメールが転送されてきた。
 
「望星」4月号のBOOKS
麻生タオ氏の『脳と魂』の書評の転載をご承諾いただきたいと存じます。
すみませんが、HPにてすでにUPしております。
誠に申し訳ございませんが、
よろしくお願い申し上げます。
 
http://www.genyusokyu.com
 
 何と玄侑さんのサイトからだ。へえ、そんなに面白かったのか(ぼくとしては、何せ“大雑談”だから書きようがなく、こんな始末になってしまったのだった)と思ったのだが、サイトを見てみると、何のことはない、メディアに出た書評はすべて網羅されていたのでした(笑)。
 


(23:19)
 
f5cb223c.jpg いきなり咲き誇って、天気予報では「明後日からは雨ですから、満開が楽しめるのは明日だけでしょう」だそうだ。
 もちろん桜の話だが、おいおい、それじゃ花見の相談すらできゃしないじゃないの。
 
 花なんてもなぁ、通りすがりに芽がいまにも咲かんとばかりに脹らんでいるのを見つけ、それがいつ頃咲くのかを楽しみにし、だったら花見はいつやるのがベターか、友人・知人に声をかけるなどの仕掛けはいつから始めようか、今年はどんな酒肴を凝らそうか……などの思案をめぐらせたりするのが楽しいのだ。
 だから花見といっても、たとえば会社の誰かが「今夜、花見をやるぞー!」と突然言い出し、若いのを酒屋に走らせて用意した缶ビールとツマミ(だいたい若いのはキャリアがなく、したがって気が利かないから、カキのタネとかポテチとか、よくてイカクンなどのカワキモノばかりになってしまったりするのだ、これが)でもって、千鳥ヶ淵あたりの人通りの多いところに腰を下ろしてやるようなのは、基本的にごめんである。
 せめて1人1個あての幕の内弁当ぐらい買ってこいよー。
 
 今年の桜はせわしないし、風情のないことはなはだしい。だから、ドワッと咲き誇っていても、ちっとも愛でたいと思わない、というか思わせる儚さがない。
 
 とはいえ、ここ何年かの花見のパターンはこうだった。
 そろそろかと思うと、同じメディアで仕事をしていた年下の友人K(これがまた酒を飲むのが好きなのだ)に声をかけ、あと一人か二人女友達なんぞを呼び出して――男2人じゃ殺風景だもの――夕方、JR市ヶ谷駅前で待ち合わせる。その際、酒肴は用意しない。飲みたい者がいれば自分で缶ビールなり、缶チューハイなり好きなものを購入する。ぼくの場合は、スキットルにバーボンを移して持参する。飲みたければ飲むし、そうでなければそのままバッグの中だ。
 そうして、市ヶ谷土手の桜並木を見ながら、ゆっくり歩く。並木に沿うようにして、花の下ではすでに列をなして酒宴が始まっている。まだ時間が早いというのに、もう首のネクタイを外し、鉢巻き代わりに頭に巻いているような気乗り十分のサラリーマンも少なくない。そうした輩も花見のオカズであるから、「おうおう、楽しんでますねえ」というような視線を投げかけながら、花見を楽しむ。
 やがて、土手のひとつの区切りまでくると、そこは飯田橋駅の新宿寄り出口だ。つまり、総武線ひと駅分を歩いたことになるわけだが、そこで土手を降り――つまり花見もここまで――左折して牛込橋を渡り、外堀通りを越えると神楽坂ののぼり口に至る。
 そこから神楽坂界隈で適当な店を見つけて入り、酒肴を頼んで、酒と談笑を楽しむ――というものだ。
 
 ところが今年はKがいない。
 昨夏、体調が悪いと病院で検査したら(と、ここまでも長いいきさつがあるのだけれど)がんが見つかり、その段階で4期と診断されたものの、手術や免疫療法を経たのちに、以来ずっと“病院”という場所からは一度も出られないまま――転院は2度して現在は埼玉・川越の帯津先生の病院にお世話になっているが――いまも踏ん張って闘病中だからだ。
 Kもいない。花も風情がない。
 こんな年に花見をやる意味はない。


(22:47)

April 07, 2005

89733912.JPG
 肩はナチュラルショルダーで、シルエットは寸胴。
 フロントはシングルブレスト3つボタン段返りで中1つ掛け、ボタンはメタルの金ボタン。
 胸はパッチポケット、脇はパッチ&フラップポケット。
 バックはセンターベントでフックベント。
 
 ――と、この一文を読んですぐにわかるアナタは、その昔、「VAN」に憧れ、「メンクラ」(雑誌『MEN'S CLUB』婦人画報社刊/現・アシェット婦人画報社)を教科書に「アイビーとは何ぞや」ということをお勉強した一人に違いない。そして、「素材はフラノ、カラーはやっぱりネイビーかキャメルが基本だぜ」などと友達に蘊蓄を垂れたりしたこともあったはずだ。

「VAN」「アイビー」をご存じない方のために言っておけば、冒頭の一文はアイビースタイルのブレザー仕様で、アイビーは60年代から70年代にかけて若者たちに大流行したファッションスタイル。そして、その流行を生み出したブランドがVAN(ヴァン)で、当時はそのロゴマークの入った紙袋を小脇に抱えるだけでもカッコよかったほどだった。
“若者たちに大流行”と書いたけれども、VANに比べたら今日びのファッション流行なんて目じゃない。VANはファッションを中心に置いて遊びからカルチャーまで、つまりライフスタイル全般に影響を与えたのだから。

  しかし、それもそのはず。生みの親、石津謙介は単にアメリカン・ファッションを提供しようとしたのではなかった。終戦直後に出会った一人の米軍中尉から聞いた、アメリカのアイビー・リーグ(アメリカ東部の名門8大学で組織するアメリカンフットボールリーグ)が持つ“ファッション哲学”を戦後の若者たちに提供しようとしたのだから。
 流行に左右されることなく長く着ることのできるもの。そしてプライドやプレステージなど、着る者に何か満足を与えてくれるような、ひとつのファッション体系――それを目指したのがVANだった。
 
 ブランド名の意味は、前衛、先陣、先駆、先導者。
 ブランド自体が生まれたのは昭和26年(1951)。そのブランドからアイビーファッションが世に送り出されたのは同32年(1957)。雑誌『MEN'S CLUB』が教科書になったのも当たり前で、石津は編集顧問だった。ちなみに、当時誌上でモデルをつとめた一人に菅原文太がいる。
 
 大ブレイクするのは、いわゆる団塊の世代第1陣が高校生になった39年。それをさらに後押ししたのが同年に創刊された『平凡パンチ』(平凡出版刊。現・マガジンハウス)という若者向けカルチャー&風俗雑誌だった。
 この年はまた東京オリンピックが開催された年でもあった。時代は復興期を終えて高度経済成長期に突入していた。
 そしてVANと『平凡パンチ』の登場以降、ニッポンは若者中心文化の社会になっていく――。
 
『P's ANIMO』2003年秋号掲載分に一部加筆
 
※追記:2005年5月24日、アイビー・ファッションの生みの親、石津謙介氏死去。享年93。大往生である。


(03:55)