April 29, 2005

 ジャッキー・チェンの映画を初めて観たのは、日本での公開順でいえば『ドランクモンキー・酔拳』に続く『スネーキーモンキー・蛇拳』(製作でいえばこちらのほうが先)で、いつだったか調べてみたら1979年のことだった。

 以降、おおむね公開のたびに観てはいたのだが、『プロジェクトA』(日本公開は1984年)とそれに続く『ポリスストーリー・香港国際警察』で、ジャッキー・チェンという俳優というか映画人の本領に驚かされて以降は見逃したことがない(『プロジェクトA』は一般試写会で観たのだけれど、NG集が披露されるエンドロールが出たとたん、会場では大拍手が巻き起こったものだ。エンドロールで観客から拍手が起こったという経験はもう1回あって、『ダイハード』です)。
 
80デイズ というわけで、『80デイズ』(原題:AROUND THE WORLD IN 80 DAYS)ももちろん観た。タイトルからわかるように、ジュール・ヴェルヌの小説の映画化だ。
 この物語の映画化としては、アカデミー賞作品賞に輝いたデヴィッド・ニヴン主演の邦題『80日間世界一周』(1956)がよく知られており、もちろん公開時ではないけれど、ぼくも観ている。
 このデヴッド・ニヴン版は、日本人には目よりむしろ耳に親しいのではないかと思うね。というのも、日本人の海外への夢をおおいに煽ったテレビ番組『兼高かおる世界の旅』のテーマ曲がこの映画の主題曲だったからで、おかげで、日本人はこの曲が流れると、「ああ、海外旅行ね」とパブロフの犬のごとくイメージが湧くようになってしまい、いまだにテレビ番組で“海外旅行”というと、この曲がよく使われる(ちなみに、調べたら『兼高かおる…』のスタートは昭和34年だが、何と平成2年まで続いていた)。
 
 時代は19世紀後半、まだ飛行機などないビクトリア朝時代のイギリス。ミスター・フォッグなる偏屈な貴族が、80日で世界1周できるかどうか社交サロンの仲間と賭けをし、雇ったばかりのフランス人の執事パスパルトゥとともに旅に出る。果たして賭けに勝つことができるのか――という冒険譚である。この物語を、ミスター・フォッグがやや偏執狂的な発明家であり、なおかつ主役を執事にして再映画化(なのか再々映画化なのか、はたまた再々々映画化なのかは知らないが)したのが『80デイズ』で、当然この執事がジャッキー・チェン。ただし、名前は原作同様「パスパルトゥ」で、中国人の主人公がそう名乗るいきさつのつくりはうまい。
 
 さらに本作は原作をなぞりながらも、中国人のジャッキーが早く故郷に帰らなくてはならぬ重要な事情があり、そのためにミスター・フォッグの従者になって世界一周計画を利用する、というサイド・ストーリーを用意して展開していく……のだが、本稿の主題はじつはここからなのです。
 
 この映画のサプライズ(売り)は、ワン・エピソードにアーノルド・シュワルツェネッガーが出ていたりすることだろうが、ぼくにとってのサプライズは、ジャッキーがうまく故郷に帰ることができたそのシーンで、サモ・ハン・キンポーが登場したことだ(ウェブの公式サイトにもそんな話は出ていなかったぞ)。

 何のことかわからない人には見終わってもわからないままだろうが(わかっている人にはネタばらしになってしまうのだけれど)、その役名がウォン・フェイ・ホン(黄飛鴻)であり、サモ・ハンの登場シーンに、あの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ』のテーマ曲「男兒當自強」が流れるのだ。
 そこで思わずムフフフと喜んでしまったし、それだけでも、ぼくにとってこの映画は面白かったといっていい。
 
 この『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ』(略してワン・チャイ)とか、黄飛鴻についてはまた書きたいと思うけれども、ひとつ明かしておけば、ジャッキー・チェンの出世作『酔拳』の主人公が、この黄飛鴻である。
     


(07:08)

April 24, 2005

グリコ R・スコット監督作品『ブラック・レイン』(1989)は、日本では概ね松田優作のハリウッドデビューであると同時に遺作ともなった映画として語られるが、もうひとつ記憶されておいていいことがある。それは「グリコ」マークのハリウッド銀幕デビューだ。

 ……かどうかはじつは断言できないのだが(笑)、同監督の代表作『ブレードランナー』的世界を彷彿とさせる怪しげなOSAKAの夜に、ミナミは道頓堀河岸に眩しく輝くあの“一粒300米”のネオンボードが映し出されたときには、おかしさを通り越して、妙な感動を覚えてしまった。
   いや、彼にとっては単に面白い画像というだけだったのかもしれないが、「ウン、これはまぎれもなく日本のマークだ」と首肯いてしまったのだ。

 それは、ぼくやアナタの子ども時代から身近にあり、遠足などのお供としてなじみ深いマークだったから、ということだけにはたぶんとどまらない。
 ひとつは、あのマーク(「ランニングマーク」という)をまとった赤い箱のキャラメル『グリコ』の登場は何と大正10年(1921)。爾来80年を超える時空を生きて今日に至る、いわば日本の近代菓子の代表と呼べる存在であること。もうひとつは、その出自において込められた日本の子どもたちに対する愛ではなかろうか、と思うのだ。

「グリコ」という名称がグリコーゲンからきているのはよく知られている。
 薬種業だった創業者が郷里・有明海の牡蠣の成分から思いついたとされるが、このエネルギー代謝に重要な栄養素を、まだ大いに貧しく栄養不足だった時代の日本の子どもたちに、と考案されたのがキャラメルに仕立てた文化的滋養菓子『グリコ』であり、商品と栄養価をアピールするために考案されたのが、「1粒300メートル」のキャッチフレーズとあのマークだった。
 
 一方、「グリコ」といえばオマケ付き菓子の代名詞でもあるが、「グリコ」に豆玩具が入れられるようになったのは6年後の昭和2年(1927)。翌々年からは早くもオリジナルのそれをつくり始めている。
 しかし、そのコンセプトはいまのように販促品、つまり“売らんかな”の気持ちからではなかった。「子どもたちにとって、食べることと遊ぶことは二大天職」ということから、食べることで健康なからだを、玩具によって子どもたちの知識と情操を育もうと考えたのだという。
 
 
 今日「食玩」などと呼ばれ、菓子が主かオマケが主かわからないものがブームとやらで数多く出回っているが、そのどこにグリコや、グリコのオマケに込められたような思いがあるのか。いや、いまの時代、そんな思いで世に送り出される商品がどれほどあるのか……「チョコエッグ」と言ったっけ? あんなもンに群がるオバカな日本人の姿を見るにつけ、そんなことを思わずにはいられない。

 
(『P's ANIMO』誌 2003.SUMMER号掲載分に一部加筆)


(06:12)

 ぼくの名刺の肩書きは、「エディター」となっている。

 もうずいぶん以前のことだが、飛行機に乗ると前の席の背の網ポケットに突っ込んであるいわゆる機内誌の仕事で広島に行き、当地の観光協会の人と名刺交換した。「広島」特集であったので、いろいろ教えを請うたり便宜を図ってもらうためだ。
 その相手がぼくの名刺を見て言った。
「このエディターいうんは、どういうお仕事ですか? 最近はカタカナの肩書きが多くて、自分らようわからんのです」
 その人の名刺には「観光プロデューサー」とあった。

 ……えー、そういう話をするつもりではありませんでした。
 ぼくの肩書きは「エディター」の前に“フリーの”という枕詞がつく。アンケートなどで職種を問われると、仕方がなく“自由業”というところにマルをつけたりするが、自由業とは気ままなようで聞こえがいいけれど、いわば潜在失業者だと言っていい。タクシーのように街を流していれば、誰かが手を挙げて仕事を依頼してくれるというようなものではなく、編集者などからお声がかかってお仕事がいただけるか、かからなければ自分で企画などを売り込みに行き、それが仕事として成り立って(この場合、成り立つかどうかが、まず大問題である)、かつその仕事をやりのけて、ようやくいくばくかのお金をいただくことができる。

 ……えー、そういう話をするつもりもありませんでした。
 ともあれ、そうした肩書きでここ7〜8年ほどは自宅で仕事をしている。とくに、ここ2〜3年は仕事が変わってきたこともあって、自宅にいることが多い。
 そのせいなのか、今日が何月何日で、ということがわからなかったりする。テレビ番組を見て、「あれ? 昨日見たんじゃなかったっけ」と思うことがよくある。つまり、もう1週間経っているのに、その感覚がないのです。
 過去の記憶も怪しくなってきた。つい、この間のことだと思っていたことが、半年ぐらい前だったりする。

 そのひとつが以下の話で、ぼくは2月頃のことだと思っていたのだが、ヘルプしてくれたAさんにあらためて確かめたら、「去年だよ。秋じゃない?」というから、もう半年ぐらい前の話だ。

 その日の夜、新宿で人と会う約束があり、ならばその前に犬の散歩をすませておこうと、庭に降りてつないでいるリードを外し、散歩用のそれに付け替えようとした、その“アッ”という間の隙をついて、犬が猛ダッシュしたのがそもそもそだった。
 雨だったか、こっちの都合だったかはもう憶えていないけれども、2日ばかり散歩に連れて行けなくて、犬にしてみれば、「オッ、やっと行けるぞ」という興奮気分もあったのだろうね、当人(というか当犬)はリードが付け替えられたつもりであったのか、ともあれ飛び出すように走り出したのだが、もはや夜のとばりがとっぷりと降り、しかもわが家のまわりは街灯も少なくて、暗く、畑が多い。かつ犬の毛は黒で、夜の闇の畑に紛れ込んだら、これはもう見つけようがない。

 30分ほどは探し回ったのだけれど見つからないし、約束の時間は迫るしで、「いいや。犬のことだから、どうせ少し遊んだら帰ってくるだろう」(そういうことがいままで何度かあったから)と思い、新宿まで出かけ、人と会い、酒を飲んで、ぼくが家に帰ってきたのは夜中の1時半。ところが犬はいない。
 では、朝になったら帰るであろうと寝てしまい、朝10時頃だったけれども、犬小屋を見ると、やっぱり帰っていない。

 さあ、すっかりMissing Dog(どこかへ行っちゃってわからない犬)だ。
 こうした場合、あなたならどうするか? というのが本日のお題なのです。

 ぼくは、やや二日酔い気味の頭で、帰ってこない理由について、3つの可能性を考えた。
(欸鮟蠅吠甞佑気譴
▲ルマに轢かれた
ボケがあるので帰れない

 に関してはあきらめた。どうしようもないもの。
 △蓮動物の遺体の処理については付近の住民からの通報などで回収してくれるだろうから、市役所のゴミ収集係などというところに何らかの記録が残っているかもしれない、と思った。
 そこで、まず△硫椎柔も含めて、市の保健所に電話してみたところ……。

「いま、犬の捕獲・保護を行っているのは保健所ではなくて、東京都は東京都福祉保険局管轄の『動物愛護相談センター』の担当になっていて、お宅様のお住まいで行けば、担当支所は日野ではないですか? ちなみに『ゴミ収集係』とか『ゴミ収集課』というのはなくて、いまは『リサイクル課』になっています」
 死んだ犬をどうリサイクルしてくれるというのだろう?

 というわけで、日野の東京都動物愛護相談センター、正しくは、「東京都動物愛護相談センター 多摩東支所」に電話してみたら……ビンゴ! それも電話で確認できてしまった。特徴を言ったら、
「ああ、お預かりしている犬だと思いますよ。首輪が迷彩のやつですね」
 迷彩? と一瞬考えたが、犬の首輪は合成樹脂製のグリーンで、ずっと使っているから色落ちと汚れで迷彩色に見えるのかもしれない。
「昨夜のいまですから、まだアップされていないかもしれませんが、ホームページに写真も出るので、そっちでも確認できます」
 たしかに、いまだ写真は出ていなかったが、特徴等からわが家の犬に違いないと思われた。しかも、ダッシュから2時間後に、わが家から100メートルも行かないところで捕まっていた。あと1時間もしたら、家に戻ってきていたかもしれないのに――。

 引き取りには、鑑札をもってこい。それに預かり賃等がかかるという。鑑札なんて、もう10年以上前に取ったものだから、どこへ行ったかわからない。そういうと、「役所で飼い主と犬の名前を言って再発行してもらえ」という。
 それより困ったのは、引き取り方法だ。というのも、ぼくは運転しない(できない)からクルマがない。まさか、日野まで行ってボケが入っている老犬と一緒に歩いて帰るわけにもいかない。
 そこで、平日の昼間で、クルマを持っていて、ヘルプしてくれそうな人――ということで、前述のAさんに電話したわけだ。Aさんは新宿の、ぼくの行きつけのバーのマスターで、アウトドアが好きだから、4WDを持っている。

センターのHPにアップされていた愛犬の写真 Aさんに犬の運搬のお願いを取り付け、日野のセンターには鑑札の再取得その他時間が必要だから、もう1泊の保護をお願いし、翌日、何とか無事連れて帰ることができた。費用としては、鑑札の再発行代、2泊のお泊まり賃を含めて8000円あまりかかったか。
  で、連れて帰る前の日の夕方に、ホームページにアップされていたのが、この写真だ。年を取っているせいもあるし、脅えてもいるのだろう。何やら古雑巾のようである。

 

 犬・猫がいなくなった人は、まず以下のページを見られたらよろしい。保護されているかもしれませんし、保護動物の検索もできます。

http://www.fukushihoken.metro.tokyo.jp/douso/index.html

 引き取りに行ったとき、老夫婦が何やら相談にきていた。聞くともなしに聞いていたら、2人とも高齢でもはや犬の世話ができぬので何とかしてほしい、ということのようだった。「何とかして」というのは、引き取って処分を、という意味である。
 ここは、そういう悲しい相談にも応じているのだ。



(04:10)