May 03, 2010
龍村仁監督の『地球交響曲 第7番』が完成、5月1日に完成披露試写会があると知ったのは一昨日のこと。たまたま別件で上野圭一さんに電話したときだ。
場所は明治神宮会館。第7番の登場人物の1人はアンドルー・ワイル博士で、来日しているという。
前日のことゆえ、もうダメかと思ったが、最悪の場合、上野さんを呼び出して何とか入れてもらおうと仲間の佐々木さんと会場に向かったら、何の何の当日でも余裕で入ることができた。
映画の中でのワイル博士のテーマは「自発的治癒」だったが、それより笑ったのは彼の日本趣味。和の朝めしが好きで、ごはんにアサリの味噌汁、大根のみそ漬けを作って食べているシーンが出てくる。
2日前には上野さんが住む伊東にやってきて、定宿になっている旅館に泊まり、地元で獲れる魚介類の和の食事と温泉を堪能したらしい。
休憩時間には龍村監督に完成のお祝いを述べ、終了後には博士に頼んで上野さんとの写真を撮らせてもらった。ワイルさんはいつも愛想がいい。「10年前に、銀座で一緒に蕎麦を食べましたよ」というと、「憶えいてるよ」と言ってくれたけど、本当だろうか(笑)。
ちなみに、映画で博士の声を担当しているのは油井昌由樹さんで、会場にきていたのでお声をかけて短い話ををした。ぼくの田舎の友達が彼と映像関係の仕事をしていて昔から知っているが、油井さんと会うのも20数年ぶり。
このところ古い知り合いに会うことが多い。
何か意味があるのだろうか。
(00:42)
April 28, 2010
その日――4月16日金曜日の夜8時半頃。新宿厚生年金となりの小さなライブハウスのステージにぼくは呼び出されて立っていた。
スタンディングで100人ぐらいは入るというその客席は、雨が降っているというのにほぼ満員。
見渡すと多くはネクタイ族のオッサンだ。
ぼくの紹介があると会場からウォーッという歓声が上がり、客席から握手の手が伸びてくる(オープニングから1時間半、客はすでに酔っている)。
ぼくは短い挨拶をして、隣のギタリストに合図を送り、ある歌を歌い出した……。
何でぼくがそんな場所にいて、歌を歌ったのか、話は長いのだけれど、かいつまんでいえばこういうことだった。
ちょうど30年前に、ある歌を作った。当時、毎晩のように通っていた新宿ゴールデン街のある店の1周年記念として店のために作ったものだった。
この歌は、客のカンパで私家版、いまでいうインディーズのEPレコードとなった。ぼくとしては自分で歌うつもりはなかったのだけれど(もっと太い声が似合うと思っていた)、結局ぼくが歌うことになった。いま聞くと、音程は不安定だし、声は出ていないし、我ながら忸怩たるものがある。ところが、そのことが朝日新聞に載った。客できた記者が東京版に何と五段抜きで書いたのだ。私家版に協力してくれたのはぼくの友人で、それを見て「これはメジャーから出せる」と動いてくれ、彼をディレクターとして吹き込み直し、いまはなきトリオレコードから出た(ちっとも売れなかったけれど)。
そのレコードが出てから5年ほどもたった頃だっただろうか、ときどき顔を出していた同じゴールデン街の「K」のママ、Mちゃんがその歌を気に入り、余分があれば1枚ほしいといった。その店には昔懐かしジュークボックスがあり、そこに入れたいのだという。手元にまだ2〜3枚あったので1敗進呈した。
これが20数年前の話だ。
それから幾星霜、先月だったか先々月だったか、ある人に誘われて久しぶりにその店を訪れた。店の場所は変わったが、カウンターだけの狭い店だ。ジュークボックスは健在で、驚いたことにぼくのレコードはまだ入っていた。リクエストしたら、当時の若くて下手くそなぼくの歌が流れてきた。ところが、Mちゃんが、「この歌を作った人です」とぼくのことを紹介すると、10人ばかりいただろうか、客から歓声が上がったのだ。
なんだ、なんなのだ、これは……。
Mちゃんが歌が好きで、客を呼んでときどきライブをやっていることは聞いていたけれど、一度もいったことはない。ところがいまや、年に1回のライブハウスのほか、お店でも月に1回狭いカウンターにバンドを入れてやっいるのだという。そして、そのオープニングにぼくの作った歌を歌っているのだというのだ。つまりKの常連ならみんな知っていた。
そして4月にはライブハウスでやるから、「ゲストで歌って」といわれたのだった。
だから、その日ライブハウスに集まってきたのは、基本的にKの客だから、ほとんどがオッサンなのだった。
もうすでにMちゃんがオープニングの3曲目ほどにぼくの歌を歌ってはいたのだけれど、1時間ほたってステージに呼び出され、紹介されると、あらためて歓声が沸いた。ぼくは直前にちょっとだけギタリストと打ち合わせをし、前奏はいらず歌から行くからと、短い挨拶のあと、キーであるGの音をもらっていきなり歌い出した。その歌をプロのミュージャンがしっかり支えてくれる。仲間内のカラオケなどでは感じられない、ライブの快感。そいつがケツの辺りから背骨を通って立ち上ってくる……。
以降の歓声やサビの部分の客との大合唱、ステージを降りてから何本もの握手の手がのびできたことなどはどうでもいい。
ただ、ぼくが作った歌が30年という時間を超え、いまだに愛して歌ってくれている人がいて、その店で“いま”の歌として愛唱している人がいたという事実にぼくは打たれた。
こんな幸せな歌はあるのだろうか。
そのことはまた、作った人間にとってもだ。
ちなみにその歌は『酔いどれブギウギ』という。
ありがとう。
スタンディングで100人ぐらいは入るというその客席は、雨が降っているというのにほぼ満員。
見渡すと多くはネクタイ族のオッサンだ。
ぼくの紹介があると会場からウォーッという歓声が上がり、客席から握手の手が伸びてくる(オープニングから1時間半、客はすでに酔っている)。
ぼくは短い挨拶をして、隣のギタリストに合図を送り、ある歌を歌い出した……。
何でぼくがそんな場所にいて、歌を歌ったのか、話は長いのだけれど、かいつまんでいえばこういうことだった。
ちょうど30年前に、ある歌を作った。当時、毎晩のように通っていた新宿ゴールデン街のある店の1周年記念として店のために作ったものだった。
この歌は、客のカンパで私家版、いまでいうインディーズのEPレコードとなった。ぼくとしては自分で歌うつもりはなかったのだけれど(もっと太い声が似合うと思っていた)、結局ぼくが歌うことになった。いま聞くと、音程は不安定だし、声は出ていないし、我ながら忸怩たるものがある。ところが、そのことが朝日新聞に載った。客できた記者が東京版に何と五段抜きで書いたのだ。私家版に協力してくれたのはぼくの友人で、それを見て「これはメジャーから出せる」と動いてくれ、彼をディレクターとして吹き込み直し、いまはなきトリオレコードから出た(ちっとも売れなかったけれど)。
そのレコードが出てから5年ほどもたった頃だっただろうか、ときどき顔を出していた同じゴールデン街の「K」のママ、Mちゃんがその歌を気に入り、余分があれば1枚ほしいといった。その店には昔懐かしジュークボックスがあり、そこに入れたいのだという。手元にまだ2〜3枚あったので1敗進呈した。
これが20数年前の話だ。
それから幾星霜、先月だったか先々月だったか、ある人に誘われて久しぶりにその店を訪れた。店の場所は変わったが、カウンターだけの狭い店だ。ジュークボックスは健在で、驚いたことにぼくのレコードはまだ入っていた。リクエストしたら、当時の若くて下手くそなぼくの歌が流れてきた。ところが、Mちゃんが、「この歌を作った人です」とぼくのことを紹介すると、10人ばかりいただろうか、客から歓声が上がったのだ。
なんだ、なんなのだ、これは……。
Mちゃんが歌が好きで、客を呼んでときどきライブをやっていることは聞いていたけれど、一度もいったことはない。ところがいまや、年に1回のライブハウスのほか、お店でも月に1回狭いカウンターにバンドを入れてやっいるのだという。そして、そのオープニングにぼくの作った歌を歌っているのだというのだ。つまりKの常連ならみんな知っていた。
そして4月にはライブハウスでやるから、「ゲストで歌って」といわれたのだった。
だから、その日ライブハウスに集まってきたのは、基本的にKの客だから、ほとんどがオッサンなのだった。
もうすでにMちゃんがオープニングの3曲目ほどにぼくの歌を歌ってはいたのだけれど、1時間ほたってステージに呼び出され、紹介されると、あらためて歓声が沸いた。ぼくは直前にちょっとだけギタリストと打ち合わせをし、前奏はいらず歌から行くからと、短い挨拶のあと、キーであるGの音をもらっていきなり歌い出した。その歌をプロのミュージャンがしっかり支えてくれる。仲間内のカラオケなどでは感じられない、ライブの快感。そいつがケツの辺りから背骨を通って立ち上ってくる……。
以降の歓声やサビの部分の客との大合唱、ステージを降りてから何本もの握手の手がのびできたことなどはどうでもいい。
ただ、ぼくが作った歌が30年という時間を超え、いまだに愛して歌ってくれている人がいて、その店で“いま”の歌として愛唱している人がいたという事実にぼくは打たれた。
こんな幸せな歌はあるのだろうか。
そのことはまた、作った人間にとってもだ。
ちなみにその歌は『酔いどれブギウギ』という。
ありがとう。
(18:22)
March 14, 2010
昨年秋、ぼくがインタビュー・構成をした1冊の本が出た。
宇都宮健児という弁護士の自叙伝で、タイトルは『弁護士冥利―だから私は闘い続ける』(東海教育研究所刊)。
http://www.amazon.co.jp/弁護士冥利―だから私は闘い続ける-宇都宮-健児/dp/4486037138/ref=sr_1_2?ie=UTF8&s=books&qid=1268499913&sr=1-2
愛媛の貧しい半農半漁の家に生まれ、小学生時代は大分の山の中で開拓民生活。中学・高校時代は熊本に出てきて、親戚の家などに身を寄せながら、家族を早く楽にさせたくて“東大一直線”。一発合格を果たしてからは、“弱者の味方”弁護士を目指して、東大在学中に司法試験に合格――と、ここまでは田舎のエリートだったが、弁護士になったはいいけれど、独立できないままに2つの法律事務所で十数年間イソ弁(居候弁護士)暮らし。自らを“落ちこぼれ弁護士”と称す。
そうした中で回ってきたのが、ほかの誰も手をつけない多重債務者からの相談で、何もないゼロよりはましだからと、仕方なくこの問題に取り組みはじめる。
以来30年、まだ野放しだったサラ金から始まり、バブル崩壊後のクレジットカード、違法な貸し付け・取り立てのヤミ金、中小企業を食い物にする商工ローンなど、さまざまな貸金業者を相手に闘い、弁護士としてのこの分野を切り開いたほか、豊田商事事件をはじめとする詐欺事件、オウム真理教事件などの被害者救済などにも取り組んできた。
近年は、貧困・格差社会の問題に積極的に取り組み、一昨年末の日比谷公園の派遣切り村では名誉村長として相談に当たったことで知られる。
こうした半生を、宇都宮さん自身が自分も実感し、また依頼者にも言ってきた「人生はやり直せる」という言葉をキーワードに、出自から今日までを時間軸に沿って綴ったものだ。
とはいえ、この仕事はなかなかにつらかった。
インタビューだけで20時間ぐらい。こいつをまず起こす。自叙伝だから、なるべく土地や生活の風景を共有したいので、かなり細かく聞いているつもりだが、実際に文章化する際になると、そこがむずかしい。また、書きながらよくわからないところが出てくると、その次のインタビューの時に確認してもらうことになる。
例えば、先生の父君は戦闘機乗りで、終戦間近にビルマで米戦闘機に足を撃たれ、日本に戻って箱根で10ヶ月療養した、という話があった。これがよくわからない。箱根には陸軍の温泉療養所があったことは調べたらわかったが、場所が違う……こんなことが多かった。
次に法律的な問題で、いったい何が問題で、それに対してどうしたかという話。法律やその手続きにはほとんど無知だから、話に出てきたそれらにはいちいち当たらなければならない。というか、こっちがわからなければ書けない。かといって、そんな基本まで先生に聞いていたら進まないからウェブなどで調べながら、間違っていたら先生に直してもらえばいいと思いつつ書く。
事件ものは先生が専門誌に書いたレポートがあり、先生の話を元に、できるだけ物語化しようと苦心した。
先生から訂正が入ってきたものについては、元原稿から直すのが早いからと頼まれたのだが、ぼくに戻されてきたものは、一度直しを入れて渡した、それ以前のもので、つまりあらためてこちらからの直しを入れつつ、先生からの訂正を反映し、なおかつ時間がないと編集者から言われ、大急ぎで手を入れて渡したら「文章が変ですよ」と言われた。
そっちが戻すゲラを間違え、しかも直しを急いだせいじゃないの?
言い忘れたが、この仕事のオファーがあったとき、「おまえの高校の先輩だぞ」と言われた。熊本県立熊本高等学校だ。ところが、宇都宮さんと初めてお会いしたときに、いろいろ話していたら、中学(熊本市立西山中学校)の先輩でもあることがわかった。
この宇都宮さんが先日(3月11日)、多くの弁護士に推され、日本の弁護士の最高機関である日本弁護士連合会の会長に就任した。
偉ぶらない、気さくなオッサンである。
宇都宮健児という弁護士の自叙伝で、タイトルは『弁護士冥利―だから私は闘い続ける』(東海教育研究所刊)。
http://www.amazon.co.jp/弁護士冥利―だから私は闘い続ける-宇都宮-健児/dp/4486037138/ref=sr_1_2?ie=UTF8&s=books&qid=1268499913&sr=1-2
愛媛の貧しい半農半漁の家に生まれ、小学生時代は大分の山の中で開拓民生活。中学・高校時代は熊本に出てきて、親戚の家などに身を寄せながら、家族を早く楽にさせたくて“東大一直線”。一発合格を果たしてからは、“弱者の味方”弁護士を目指して、東大在学中に司法試験に合格――と、ここまでは田舎のエリートだったが、弁護士になったはいいけれど、独立できないままに2つの法律事務所で十数年間イソ弁(居候弁護士)暮らし。自らを“落ちこぼれ弁護士”と称す。
そうした中で回ってきたのが、ほかの誰も手をつけない多重債務者からの相談で、何もないゼロよりはましだからと、仕方なくこの問題に取り組みはじめる。
以来30年、まだ野放しだったサラ金から始まり、バブル崩壊後のクレジットカード、違法な貸し付け・取り立てのヤミ金、中小企業を食い物にする商工ローンなど、さまざまな貸金業者を相手に闘い、弁護士としてのこの分野を切り開いたほか、豊田商事事件をはじめとする詐欺事件、オウム真理教事件などの被害者救済などにも取り組んできた。
近年は、貧困・格差社会の問題に積極的に取り組み、一昨年末の日比谷公園の派遣切り村では名誉村長として相談に当たったことで知られる。
こうした半生を、宇都宮さん自身が自分も実感し、また依頼者にも言ってきた「人生はやり直せる」という言葉をキーワードに、出自から今日までを時間軸に沿って綴ったものだ。
とはいえ、この仕事はなかなかにつらかった。
インタビューだけで20時間ぐらい。こいつをまず起こす。自叙伝だから、なるべく土地や生活の風景を共有したいので、かなり細かく聞いているつもりだが、実際に文章化する際になると、そこがむずかしい。また、書きながらよくわからないところが出てくると、その次のインタビューの時に確認してもらうことになる。
例えば、先生の父君は戦闘機乗りで、終戦間近にビルマで米戦闘機に足を撃たれ、日本に戻って箱根で10ヶ月療養した、という話があった。これがよくわからない。箱根には陸軍の温泉療養所があったことは調べたらわかったが、場所が違う……こんなことが多かった。
次に法律的な問題で、いったい何が問題で、それに対してどうしたかという話。法律やその手続きにはほとんど無知だから、話に出てきたそれらにはいちいち当たらなければならない。というか、こっちがわからなければ書けない。かといって、そんな基本まで先生に聞いていたら進まないからウェブなどで調べながら、間違っていたら先生に直してもらえばいいと思いつつ書く。
事件ものは先生が専門誌に書いたレポートがあり、先生の話を元に、できるだけ物語化しようと苦心した。
先生から訂正が入ってきたものについては、元原稿から直すのが早いからと頼まれたのだが、ぼくに戻されてきたものは、一度直しを入れて渡した、それ以前のもので、つまりあらためてこちらからの直しを入れつつ、先生からの訂正を反映し、なおかつ時間がないと編集者から言われ、大急ぎで手を入れて渡したら「文章が変ですよ」と言われた。
そっちが戻すゲラを間違え、しかも直しを急いだせいじゃないの?
言い忘れたが、この仕事のオファーがあったとき、「おまえの高校の先輩だぞ」と言われた。熊本県立熊本高等学校だ。ところが、宇都宮さんと初めてお会いしたときに、いろいろ話していたら、中学(熊本市立西山中学校)の先輩でもあることがわかった。
この宇都宮さんが先日(3月11日)、多くの弁護士に推され、日本の弁護士の最高機関である日本弁護士連合会の会長に就任した。
偉ぶらない、気さくなオッサンである。
(03:14)